2019年5月8日祈祷会(第一テサロニケ3章、主と共にあることの喜び)
1.信仰と迫害
・パウロはテサロニケ教会を再訪したいと願っていたが、諸般の事情がそれを妨げた(原文では「サタンの妨げ」)。そのため弟子のテモテをテサロニケに派遣する。
−第一テサロニケ2:17-18、3:1-3「私たちは、あなたがたからしばらく引き離されていたので、なおさら、あなたがたの顔を見たいと切に望みました・・・私パウロは一度ならず行こうとしたのですが、サタンによって妨げられました。そこで、もはや我慢できず、私たちだけがアテネに残ることにし、私たちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました。それは、あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするためでした」。
・テサロニケの信徒はユダヤ教会堂からの分離者たちであり、同胞ユダヤ人から迫害を受けていた。またローマに処刑されたイエスを主と仰ぐ信仰運動が、帝国内で危険な宗教とみなされ、テサロニケでは排斥運動が起きていた。パウロはここで、キリスト者になるとは、「この世では苦しみを受ける」ことである事を明言する。「キリスト者としての召命を受けることは十字架をそれぞれが担って生きる」ことである。
−第一テサロニケ3:3-4「私たちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています。あなたがたのもとにいた時、私たちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実その通りになりました」。
・キリスト者はこの世で苦難を受ける。それは「キリストがこの世に属さない」ように、「キリスト者も世に属さない」からだ(ヨハネ15:18-19)。キリスト者は迫害を受けてもなおイエスに従い続ける。それは何物にも代えがたい宝がイエスの福音の中にあるからだ。人はだれかの役に立つ時にはじめて生きがいを感じる存在だ。イエスの跡に従うため、多くの人々がライ患者のために仕えた。スチーブンソンはそこに神の業を見ている。
−院母マリアンヌ姉に「このところには哀れなことが限りなくある。手足は切り落とされ、顔は形がくずれ、さいまれながらも、微笑む、罪のない忍苦の人。それを見て愚か者は神なしと言いたくなろう。一目見て、しり込みする。しかし、もう一度見つめるならば、苦痛の胸からも、うるわしさ湧ききたりて、目に留まるは、歎きの浜で看取りする姉妹達。そして愚か者でも口をつぐみ、神を拝む。」
2.相手の救いを喜ぶ信仰
・パウロたちは、ピリピ、テサロニケ、ベレアでは迫害を受けて町を追われた。アテネでは民衆の無関心の中で伝道に失敗する。コリント伝道もうまく行っていない。そこにテモテからうれしい知らせが届いた。
−第一テサロニケ3:6-7「テモテがそちらから私たちのもとに今帰って来て、あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました。また、あなたがたがいつも好意をもって私たちを覚えていてくれる事、更に、私たちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたも私たちにしきりに会いたがっている事を知らせてくれました・・・私たちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」。
・パウロはこの「うれしい知らせ」を、福音(エウアンゲリオン)と呼ぶ。パウロにとっては待ちわびた吉報、まさに「善い知らせ=福音」なのである。パウロは語る「顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」と。
−第一テサロニケ3:8-10「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、私たちは生きていると言えるからです。私たちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています・・・顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています」。
・その喜びがパウロに感謝の祈りをさせる。ここでは三つのことが祈られている。「道が開かれて、テサロニケへ行くことができるように」、「互いの愛が増し加えられ、豊かにされるように」、「主の再臨の時に、聖なる、責められるところのない者へと強めてくれるように」。
−第一テサロニケ3:11-13「どうか、私たちの父である神御自身と私たちの主イエスとが、私たちにそちらへ行く道を開いてくださいますように。どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、私たちがあなたがたを愛しているように。そして、私たちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、私たちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」。
3.パウロの伝道旅行と再臨の希望
・第二回伝道旅行(49-50年)で、パウロはシラスをパートナーとして選び、陸路でかつての伝道地に向かう。その途上、パウロはルステラで「テモテ」に出会い、彼も同行者になる。テモテは父をギリシャ人に持ち、母は敬虔なユダヤ人で、幼い時から信仰教育をされた。やがてパウロの愛弟子、同労者、として、パウロの生涯に寄り添った人物となる。後半以降の伝道旅行はパウロ・シラス・テモテの旅になる。
・テサロニケから追放されたパウロはその後アテネに行き、そこからテモテをテサロニケに遣わす。パウロは一度ならず二度も、テサロニケに行こうと「心を決めた」が、何らかの理由でいけなかった。そのようなこともあってがまんすることができなくなり、テモテだけをテサロニケに遣わした。その派遣理由はテサロニケの人々の信仰を強め、励ますためである。苦難の中にあっても、動揺する者が一人もないようにするため、自分たちの労苦がむだになることがないように、とパウロは祈る。教会はパウロの手紙に励まされた。だから、その写しを大事に保存し、やがて編集され、聖書の一巻となる。
−第一テサロニケ3:5「もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、私たちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです」。
・パウロをここまで伝道に駆り立てた情熱は何だろうか。「キリスト再臨(パルーシア)の希望」である。パウロはイエスの復活は新しい時代の幕開け(終末の始まり、悪の世の終わり)であり、やがて神が支配する最後の日が来る、その日までに何とかして一人でも多くを救いたいと願っていた。
−第一コリント15:20-26「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです・・・最初にキリスト、次いで、キリストが来られる時に、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます」。
・パウロは彼自身が生きている間に最後の時、主の再臨があると信じていた。だから彼は伝道を急ぐ。
−第一テサロニケ4:15-17「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残る私たちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります」。
・しかし2000年たってもキリストの再臨はなかった。今日の私たちは再臨信仰を失ってしまった。だから信仰が「熱くもなく、冷たくもなく、生ぬるく」なっている(ヨハネ黙示録3:15)。内村鑑三は再臨信仰を「希望の信仰」と語る。
―内村鑑三「基督再臨とは万物の復興である。また聖徒の復活・・・神政の実現である。人類の希望を総括したもの、それがキリストの再臨である。これを理解してすべてがわかる。再臨を信じて聖書がわかり、聖書がわかって神を解し、人生を解し、自己を解した。神は死の苦痛を除き、自分と自然とを永久に結び、贖われた身体をもって完成された天地に不朽の生命を受ける希望を賜うた」(関根正雄編著『内村鑑三』)。
・近年、キリスト教的終末論の見直しが始まっている。ニカイア信条はうたう「我らは来るべき世の命を待ち望む」。「死ねばすべてが無に帰す」と考える人々は地上の富の最大化を目指し、地上だけで人生を完結しようとする。これが現代の資本主義社会であり、他者に配慮しない強欲資本主義となり、格差拡大を解消できず、行き詰まりを見せている。キリスト者は「来たるべき世」の命を待ち望み、「現在の生」を大事にし、「他者との共存」を求め、「天の富」を待ち望む。そこに新しい可能性が開けていく。
−2019.5.5説教から「世の人々は語ります『能力のある者はそれに見合った収入を得るべきであるし、多く努力した者はそれだけ多くの報いを得るべきである。もし全てが平等無差別であれば、人間は向上心を失い、怠け者の社会になってしまう』。一見もっともな論理ですが、それは強者の論理であり、聖書はそれを明確に否定します『もし能力によって差別がなされた時、身体障害者や知的障害者は低い生活に甘んじるのが当然になる。もし働きによって差別がなされた時、病人や老人は押しのけられる。神はそのような社会を望んでおられない』」。