1.終末における世の荒廃の中にあって
・使徒たちは、今は終末であり、イエスの再臨=神の国の到来によって歴史は完成すると信じていた。パウロもまた自分の生きているうちに終末の日が来ると信じていた。
-第一テサロニケ4:15-17「主が来られる日まで生き残る私たちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります」。
・しかし終末を前に地上には混乱が起きるとパウロは考えている。異なる福音による教会の混乱の中に、パウロは終末に訪れる苦難のしるしを見ている。
-第一テモテ4:1「“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます」。
・その時の人々の心の荒廃が2節以下に列挙される。荒廃=罪が教会の中に生まれている。その荒廃の根本は自己愛だ。神よりも自分を愛する信仰の逸脱から、金銭を愛する貪りや快楽を愛する姦淫も生まれる。
-第二テモテ3:1-4a「終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。その時、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり(ます)」。
・偶像礼拝も結局のところ、神よりも自己を愛することから生じる。自己に都合の良い神、自己に都合の良い教えを信奉することが偶像礼拝である。その時、信仰は生きる力ではなくなる。
-第二テモテ3:4b-5「神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい」。
・私たちは十字架の愛と復活を信じる。十字架の愛とは他者のために死んでいく愛だ。他者のために死ぬ時、他者に対する貪りや快楽の追求は生まれない。神の示された愛とは他者の足を洗う行為である。
-ヨハネ12:24-25「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。
・愚かな人々は異端に惑わされる。しかし、異端は真理を持たない故、一時的に信奉されても、やがて廃れる。モーセに反対したエジプトの魔術師もやがて滅びたではないか。
-第二テモテ3:6-9「彼らの中には、他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです・・・ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、彼らも真理に逆らっています。彼らは精神の腐った人間で、信仰の失格者です。しかし、これ以上はびこらないでしょう。彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。ヤンネとヤンブレの場合もそうでした」。
2.教えに留まりなさい。
・「テモテ、あなたは迫害の中でも、私に従ってくれた。この教えは神から来る。この教えから離れてはいけない」とパウロは語る。
-第二テモテ3:10-14「私の教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラで私に降りかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。迫害に私は耐えました。そして、主がその全てから私を救い出して下さったのです。・・・あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」。
・キリスト者は世から憎まれる。迫害は当然なのだ。迫害があることこそ、教えが正しいことのしるしだ。
-第二テモテ3:12「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」。
・あなたは幼い時から聖書に親しんできた。この聖書には命がある。それは神の霊によって書かれたものだ。聖書を学び、生きる力をいただきなさい。
-第二テモテ3:14-17「あなたは、・・・自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」。
3.逐語霊感説をどう考えるか
・ある人々はテモテ書やペテロ書から、逐語霊感説を唱える。しかし、それは聖書の正しい読み方ではない。聖書は人によって書かれたものであり、時代の制約の中にある。
―第二ペテロ1:20-21「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」。
・マタイ福音書におけるイエスの十字架死の記述もそうであろう。そこにはマタイの黙示思想的な奇跡信仰が記されており、決して現実の出来事の報告ではないことを銘記する必要がある。
-マタイ27:50-54「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」。
・青野太潮氏は東京バプテスト神学校夏期講座の中で「逐語霊感説は成立しない」として語る。
-「現代のキリスト教原理主義者は聖書の「逐語霊感説」の信奉者だが、そのような「逐語霊感説」は成立し得ないことを、私たちは肝に銘じておく必要がある。なぜならば、すべての聖書の翻訳が依拠しているはずの原典そのものが世界のどこにも存在してはいない。新約聖書について言えば、現在、約6000の聖書写本が存在するが、それらを厳密に比較検討して、ギリシア語原典は再構成されている。それは相当に信頼に足る再構成ではあるが、それでも20年ごとに新しい校訂本が出版されている。2012年発行のネストレ・アーランド第28版が最新だが、新約聖書の本文は、版が変わるたびに、少しずつ変化している。つまり原典が動いている。だから、一字一句、一点一画も誤りがない、などとは、あり得ない」。
-「原典がそうだから、その翻訳(すなわち解釈)が相対的なものでしかないとことは、言うまでもない。さらに、新約聖書において私たちが読むイエス・キリストの言葉は、元来イエスがお話しになったアラム語からギリシア語に「翻訳」されたものでしかない。しかし実はこれこそが、人間はその有限で相対的な有り様を通してしか生きることはできないのだ、しかしまさにその誤り多き不完全で有限な有り様のままで神によって「良し」とされているのだ、という福音によって、決定づけられている事実である」。
-「聖書の原典そのものもまた、このような福音によって刺し貫かれていなくてはならない。そしてイエスが何もお書きにならなかったという事実もまた、イエスの言葉を金科玉条のごとくに遵守しさえすれば、人は絶対的な正しさを手にすることができるのだ、などと私たちが夢想することのないようにという警告にほかならない。なぜならば、たとえ仮にイエスの生(なま)の言葉が存在したとしても、その言葉の「解釈」が、人によって必ず異なったものとならざるを得ないという、そういう「解釈」が常に付いて回る限り、人は「絶対的な」正しさを手中にすることなどできない」。
・それにもかかわらず、聖書は神の言葉であり、力を持つ。聖書の言葉の力を私たちは信じ抜いていく。
-イザヤ55:10-11「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、私の口から出る私の言葉も、むなしくは、私の元に戻らない。それは私の望むことを成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たす」。