2019年4月17日祈祷会(コロサイ書4章、祈りの輪)
1.パウロの最後の勧め
・コロサイ教会の創立者エパフラスはエペソの獄中にパウロを訪ね、教会が異なる福音に惑わされ、混乱していると伝えた。パウロはコロサイの人々の為に祈りながら、この手紙を書く。同時にパウロはコロサイの人々にも、祈って欲しいと伝える。共に祈りあう、そこに祈りに結ばれた交わりがある。
−コロサイ4:2-4「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。同時に私たちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、私たちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。このために、私は牢につながれています。私がしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください」。
・牧会者は信徒のために祈り、信徒は牧会者に為に祈る。この時、教会は一つになる。一つになった教会は、教会の外にいる人々への伝道を始める。その伝道は信徒の言葉と業による証しだ。
−コロサイ4:5-6「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」。
・塩で味付けされた言葉で、福音を語る。福音に生かされた生活の中で証しする。
−マタイ5:13-16「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう・・・あなたがたは世の光である・・・あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。
2.祈りの輪の中にある教会
・パウロはエペソの獄中にいるが、多くの人々が、パウロと協同して働いている。弟子ティキコはこの手紙を持ってコロサイの人々を訪問する。
−コロサイ4:7-8「私の様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。彼をそちらに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです」。
・ティキコはオネシモを同行する(コロサイ4:9)。オネシモはコロサイの有力信徒フィレモンの元から逃げ出した奴隷で、今はパウロに仕えている。パウロはフィレモンに対し、オネシモを執り成す手紙(フィレモン書)を書いている。
−フィレモン1:9-20「監禁中にもうけた私の子オネシモのことで、頼みがあるのです。彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにも私にも役立つ者となっています。私の心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します・・・私を仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモを私と思って迎え入れて下さい。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それは私が自分で支払いましょう。・・・キリストによって、私の心を元気づけて下さい」。
・オネシモはパウロに出会って変えられ、パウロの執り成しで元の主人フィレモンと和解し、その後、パウロに仕える者になった。パウロ死後はエフェソ教会の監督になり、パウロ書簡の収集活動を行い、パウロの手紙が聖書正典として残された。そして彼は、「自分がどのように赦されて福音に生きる者になったのか」を証しする手紙(フィレモン書)を、パウロ書簡に編入した。その手紙は、今はエフェソの監督として尊敬される身になったオネシモが、かつては逃亡奴隷であったことを明らかにするもので、人間的に見れば公表したくないものだ。しかしオネシモは書簡を公表し、神が一人の奴隷にどのように大きな恵みを与えて下さったかを証した。ここに福音の奇跡がある。
・アリスタルコ、マルコもパウロの下で、伝道のために働いている。
−コロサイ4:10「私と一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです」。
・このマルコは後に最初の福音書を書いたマルコであろう。使徒言行録によれば、彼はかつてパウロを裏切っている「パウロはバルナバに言った。『さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。』バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになった」(使徒15:36-39)。かつては弱さの故にパウロの期待を裏切ったマルコが、今はパウロの愛弟子になっている。信仰上の仲違いが見事に修復されている。
・コロサイ教会の設立者エパフラスもエペソでコロサイの人々のために祈っている。
−コロサイ4:12「あなたがたの一人、キリスト・イエスの僕エパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」。
・そこには「愛する医者ルカ」も、「デマス」もいる。ルカは福音書を著し、使徒行伝を書いたあのルカだ。ルカは生涯パウロに仕えたが、デマスはやがて教会から離れていった(第二テモテ4:9-11)。また何より忘れていけない人は、この手紙の共著者テモテであろう(1:1)。この手紙は、おそらくテモテが執筆し、パウロが署名したと思われる(4:18)。パウロもテモテも、この手紙がやがて聖書の一部となり、世界中の信徒に読まれることは夢にも思わなかった。それを可能にしたのは解放奴隷オネシモが後にエフェソ監督になり、自分を救ってくれたパウロの書簡を集めてそれをパウロ書簡集として編集したからだ。
・私たちが孤立していないように、教会も孤立しない。教会はいろいろな人の祈りの輪の中にある。「私はあなたと共にいる」、それが旧約・新約を貫く聖書の指針だ。それは具体的には、人の支援として現れる。
−マタイ28:18-20「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
3.教会に連なることの意味
・初代教会の人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と使徒言行録2:42は記す。使徒の教えとは使徒たちの主イエス・キリストの十字架と復活についての証言で、初代教会は、説教を聴くことから教会形成を始めた。この説教に促されて、人々は兄弟姉妹への交わりへと入る。それは「互いに愛し合う」(ヨハネ15:12)という交わりである。キリスト者になるとは、愛し合う関係を他者と構築することで、この愛し合いが「相互の交わり」として表現されている。また交わりを示すギリシア語コイノニアは「分かちあう」という意味を持つ。交わりとは単に親しくなることではなく、分かち合うこと、一つのパンが手元にあれば、それを二つに分けて一緒に食べることが交わりを意味する。
・交わりの中心になったのが「パン裂き」で、食物を持ち寄って共に食べる食卓の交わりだ。そして「祈ることに熱心であった」、この祈りは個人の祈りというよりは共同の祈りである。初代教会の人々は毎日集まり、礼拝を捧げ、食卓を共にし、兄弟姉妹へのとりなしを祈り、このような活動を通して、彼らは一つになっていった。現代の私たちは忙しく、週1日か2日しか、共に集まることが出来ない。それだけに、主日礼拝と水曜日、木曜日の祈祷会を大事にしたい。共に集まって聖書を読み、祈ることこそ、主にある交わりであり、この交わりなしには、信仰の成長はない。私たちの信仰は、自分一人が救われればよいとする信仰ではなく、共に救われる信仰である。
・初代教会も時代の変化と共に変わり始める。最初の使徒たちがいなくなると、使徒の教えについて解釈が分かれ、対立が生じて来た。食卓での交わりも、やがて異邦人が教会に加えられると「無割礼の異邦人とは食卓を共に出来ない」と言い始める人も出てくる。信仰と生活が次第に分離していく。毎日の生活はきれいごとだけでは済まされない。しかし、教会はその本質を失わなかった。
・現代の私たちの信仰生活の原点はこの初代教会の生き方にある。初代教会は「能力に応じて働き、必要に応じて分配する」共同体を形成した。今日の教会でも、この分かち合いが献金という形で生きている。「能力に応じて捧げ、必要に応じて用いる」ことが、献金の原点だ。初代教会が、単に説教を聴いて讃美するだけの教会ではなかったゆえに、私たちも社会の動きの中で、何をすべきかを模索する。社会的な差別の中で苦しむ人がいれば、その人のために行動する。初代教会は、病気になっている者、問題を抱えている者、信仰が弱まっている者のために祈った。この祈りを私たちも続ける。祈りは行為を伴うのである。
−ヤコブ2:15-17「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。