2019年9月11日祈祷会(テトス2章、地の塩、世の光として生きる)

投稿日:2019年9月11日 更新日:

 

1.健全な教えに生きなさい

 

・クレタの教会は異なる教えの台頭で、混乱している。ある者は禁欲を、別の者は神秘体験を信仰の業として行うことを求める。しかし、テトスの師パウロは、「健全な信仰生活をこの世で送る」ことこそが、キリスト者のなすべきことだとテトスに書き送る。

-テトス1:16-2:1「こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です。しかし、あなたは、健全な教えに適うことを語りなさい」。

・人は年を取ると自制力を失い、気短になり、生きることに投げやりになる。しかし、教会の長老たちは、「自らを節し、謹厳で、慎み深くあれ」と勧められる。

-テトス2:2「年老いた男には、節制し、品位を保ち、分別があり、信仰と愛と忍耐の点で健全であるように勧めなさい」。

・女性も年をとると、あつかましく恥知らずになりやすい。しかし、「年配の婦人たちは、これまでの人生経験と知恵により、若い婦人たちに良き業を教える者となりなさい」と勧められる。

-テトス2:3「同じように、年老いた女には、聖なる務めを果たす者にふさわしくふるまい、中傷せず、大酒のとりこにならず、善いことを教える者となるように勧めなさい」。

・若い婦人たちには、「妻として母としての勤めをりっぱに果たすように勧めなさい」と語られる。

-テトス2:4-5「彼女たちは若い女を諭して、夫を愛し、子供を愛し、分別があり、貞潔で、家事にいそしみ、善良で、夫に従うようにさせることができます。これは、神の言葉が汚されないためです」。

・青年たちには、「思慮深く振舞うように教えなさい。あなた自身が若い人たちの模範となりなさい」と語られる。

-テトス2:6-8「若い男には、思慮深くふるまうように勧めなさい。あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教える時には、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、私たちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう」。

・奴隷に対しては、「積極的に主人に服従することを通して、主を証しするように勧めなさい」と語られる。

-テトス2:9-10「奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧めなさい。そうすれば、私たちの救い主である神の教えを、あらゆる点で輝かすことになります」。

 

2.テトス2章が教えること-地の塩、世の光として、生きよ

 

・パウロは「奴隷は奴隷としての務めを十分に果たしなさい」と教え、「自由になるために戦え」とは言わなかった。奴隷であるか、ないかは、救いの本質には関係しないからだ。だから「無慈悲な主人にも仕えよ」と聖書は教える。

-第一コリント7:21-22「召された時に奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」。

・若い婦人たちにも、良き妻、良き母であれと勧める。それは家父長制下のあきらめではなく、積極的な証しの生き方だ。自己実現、自己充実を通しては本当の喜びは生まれない。喜びは相手に仕えることを通して生まれる。

-第一ペテロ3:1-2「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」。

・神は御子を通して私たちに命を下さった。命をいただいた私たちは、この世の欲を捨て、慎み深く、正しく、信心深く生活することを通して、私たちの希望を証ししていくのだ。

-テトス2:11-13「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、私たちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています」。

・伝道とは外に向かって福音を説くこと以上に、「福音を生活の中で生きる」私たちの姿を外に向かって示すことだ。

-テトス2:14「キリストが私たちのために御自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」。

・神は私たちを通して、人々に福音を伝えようとしておられる。あなたは神の器として、地の塩、世の光となることが求められている。そのことを通して、本当の充足が、本当の満たしが、あなたの人生に与えられる。

-マタイ5:13-16「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう・・・あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない・・・そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。

 

3.信徒として生きることの大切さ

 

・ヘンドリック・クレーマーは「信徒の神学」を書いた。その中で彼は「信徒こそ世に遣わされた伝道者だ」と述べる。

-信徒の神学から「神は世と関わりを持たれる方であるゆえに、教会もまた世のために存在する。しかし、現実には、教会の関心は、教会自身の増大と福祉に注がれてきた。教会は宣教のための器として立てられた。宣教に専念し、世に向けて、御言葉を発信している教会では、分派や論争はおきにくい。主目的において一致があるからだ。教会はキリストに仕え、世に仕えていく。そこでは牧師と共に信徒も宣教の業を担う。信徒こそが世に離散した教会である。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく使命を持つ」。

・隅谷三喜男は「日本の信徒の神学」の中で、「信徒が生かされていない」と述べる。

-日本の信徒の神学から「神学者は2階にいて、勉強している。信徒は日曜日だけ2階に行って、あとは1階で生活している。これはドイツの哲学者レーヴィットの日本知識人批判(2階に欧米の思想、1階に日本的心情、両者を結ぶ階段がない)を日本の教会の現状に当てはめたものだ。2階にはバルトやテーリッヒの本が並んでおり、説教は2階で準備される。1階には信徒が主の言葉を生活の中で聞きたいと集まるが、語られるのは神学者の言葉であり、生活の中の信仰ではない。その結果、信徒における信仰と生活の分離、牧師における説教や教えの生活からの分離が生じている。古屋安雄はいう『日本の教会は、頭はドイツ神学、体はアメリカ教会、心は日本的心情である』」。

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