2019年8月28日祈祷会(第二テモテ4章、逆境の中にあってこそ)

投稿日:2019年8月27日 更新日:

 

 

1.最後の裁きの日に備えて

 

・パウロはローマで死刑の判決を受けようとしている。テモテはエペソの教会にあって、帝国からの迫害と内部の異端に苦しめられている。逆境にあるパウロが同じく厳しい状況にあるテモテへ慰めを送る。

-第二テモテ4:1-2「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」。

・終末、世の終わりがいつ来るか、私たちは知らない。しかし、個人が必ず死ぬように、世の終わりも必ず来る。その時、私たちは神の御前に立ち、どのように生きたかが問われる。

-マタイ25:31-33「人の子は・・・天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。

・右側は永遠の命を与えられる人々だ。彼らは他者を愛した。それゆえに永遠の命を与えられる。

-マタイ25:34-40「王は右側にいる人たちに言う『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた・・・私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。

・左側は永遠の滅びにいたる人々だ。彼らは他者ではなく、自分のみを愛した。彼らはその報いを受ける。

-マタイ25:41-46「王は左側にいる人たちにも言う『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかった』」

・最後の裁きに比べれば現在の困難は何であろう。終わりの日を考えない人々は現在の幸福のみを求め、聞きたいことを聞き、信じたいことを信じようとする。しかし、あなたは語るべきことを語りなさい。

-第二テモテ4:3-5「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」。

 

2.逆境を喜ぶ

 

・パウロは処刑の日が近いことを予感しているが、彼はそれ喜ぶ。主のために流す血は無駄にはならない。

-第二テモテ4:6-8「私自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです」。

・死ぬことはキリストの御許に行くことであり、休息が与えられる時だ。それは何も恐れることはない。

-ピリピ1:21-24「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。

・旧約の人々は犠牲の動物の血を祭壇に注ぎ、罪の赦しを願った。新約の人々はイエスが犠牲の子羊となり、その血で私たちを贖われたと信じる。パウロも自分の血が流され、それが人々を励ますのであれば喜んで血を流そうと言う。

-ピリピ2:17-18「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます・・・あなたがたも喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」。

・パウロはエルサレムで捕えられ、裁判のためにローマに連れて来られ、その結果、福音が帝国の首都ローマにまで宣べ伝えられた。神の不思議な業が働いている。人は捕えられても、神の言葉を閉じ込めておくことは出来ない。

-第二テモテ4:16-17「私の最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆私を見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、私を通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主は私のそばにいて、力づけてくださいました。そして、私は獅子の口から救われました」。

・最後に裁く方は誰か、神か人か、神であれば、一生懸命に生きた人生は決して無駄にならない。

-イザヤ49:4「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。

 

3.第二テモテ書の黙想~神の国と地の国は何が違うのか

 

・パウロは処刑されて死んで行った。ペテロもまた処刑されている。何よりも主イエスも処刑されている。何故神の国建設のために働いた人たちの最後がこの様な形になるのか。神の国とは何か、アウグスティヌスは著書「神の国」の中で、神の国と地の国の違いを述べる。

-アウグスティヌス・神の国から「二種の愛が二つの国をつくった。この世の国をつくったのは神を侮るまでになった自己愛であり、天の国をつくったのは自己を侮るまでになった神への愛である。歴史のあらゆるところで、神の国と地の国、神への愛と自己愛が入り混じって存在している。二つの国は不可視的なものとして存在している。人間も人間の集団の歴史も、この二つの愛の間をさまよっている。この世で、神の愛に基づく国をつくり、正義、平和、秩序を求めることは難しい。しかし、過去の過ちを探り、永遠の平和を求めて、地上の生活を続けていく。それが人間の歴史である」。

・この世が地の国であるのは良い、しかし神の国であるべき教会の中にも世の悪が入り込んでいる。アウグスティヌスは、神の国と思われている教会の中に悪があることをどう考えるべきかを述べる。

-アウグスティヌス・神の国から「誰が毒麦で誰が良い麦であるかは私たちにはわからない。全ての信徒が毒麦にも良い麦にもなりうる。ある意味では、私たち各自のうちに毒麦と良い麦が共存しているともいえる。だから、他人が毒麦であるか否かを裁くよりも、むしろ自分が毒麦にならないように、自分の中にある良い麦を育て、毒麦を殺していくように」。

・しかし彼は言う「神は悪をも善用されるほどに全能であり、善なる方である」。裁きはこの神に任せよと。

-創世記50:19-20「ヨセフは兄たちに言った『恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです』」。

・そうであればマタイ13章の毒麦の譬えの意味もすんなりと理解できるのではないか。

-マタイ13:24-30「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

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