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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年2月13日祈祷会(エペソ5章、この世でキリスト者として生きる)

投稿日:2019年2月13日 更新日:

2019年2月13日祈祷会(エペソ5章、この世でキリスト者として生きる)

1.悪しき時代の中でのキリスト者の生き方

・悪のはびこる世のただ中で、キリスト者として生きるには、キリスト者としての召命を再確認することが必要だ。牧会者は勧める「あなた方は神の子、聖なる者とされたのだから、それにふさわしく生きよ」。
−エペソ5:1「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」。
・神に倣うとは、神がキリストを捧げて下さったように、私たちも「自分を捧げる」ことだ。自分を献げるとは「自分を捨てる」ことだ。その時、他者に対する貪欲な言葉や、卑猥な言葉が出るはずはない。
−エペソ5:2-4「キリストが私たちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとして私たちのために神に献げて下さったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい」。
・キリスト者にも多くの悪への誘いがあるだろうが、同調するな。塩は塩気を失ってはいけない。
−エペソ5:6-7「空しい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい」。
・また、「あなた方は光であるキリストを知ったのだから、光の子として歩め」とも勧める。それは「キリストならどうされるか」(WJWD=What Jesus Would Do)を生活の基準にする事だ。
−エペソ5:8-10「あなたがたは以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」。
・世においては、「見ざる、聞かざる、言わず」が大人の知恵とされている。しかし、あなたがたは不正を見逃すな、悪を放置するな。その結果、損をするのであれば損を受けよ。神は見ておられる。
−エペソ5:11-14「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らが密かに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです」。
・エペソ書の著者は、今は悪が支配する時だと考えている。その中にあってキリスト者は、この世から遠ざかるのではなく、この世のただ中で、「地の塩、世の光として生きていく」ことが求められている。
−エペソ5:15-17「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」。
・世においては、人々は共に酒を飲み、愉快に騒ぐことを友好のしるしとしている。しかし、あなたがたは酔うほどには飲むな。酩酊は人を無防備に導き、罪に誘う。
−エペソ5:18-19「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」。

2.キリストと教会、夫と妻

・著者は結婚を信仰の問題としてとらえている。結婚とは夫と妻が仕え合うことだと。
−エペソ5:21-24「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです」。
・これは夫と妻の従属関係を規定するのではない。役割の違いである。だから、夫にも『キリストが教会の為に死んでくださった』ように、あなたも妻を愛しなさいと求められている。
−エペソ5:25-29「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい・・・夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです」。
・「お互いに自由なのだから結婚の縛りは重要ではない」という結婚軽視の考え方があり、「肉体は卑しく、性的交わりは悪だ」と結婚を罪悪化する者もいた。牧会者は、結婚を聖なるものと理解している。
−エペソ5:30-32「私たちは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』。この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです」。
・妻は暴力をふるい続ける夫にも仕えるべきなのだろうか。夫は浪費や不倫をする妻のために死ぬべきだろうか。ペテロ第一の手紙はそうせよと勧める。今日では意見が分かれる御言葉だ。
−第一ペテロ3:1-7「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです・・・同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」。

3.エペソ5章の黙想

・パウロは人々に「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)と教えた。
・しかし、現実は違った。ユダヤ人はギリシア人とは交わらず、奴隷と主人は教会の外に出れば、身分格差はそのままだった。妻は教会の中で「キリストにあっては男も女もない」という教えを聞くが、現実の生活の中では夫に従属するものとして、何の法的権利も持たなかった。妻や子や奴隷は不満を抱く。教会で語られている事と現実が違いすぎるではないか。だから牧会者は手紙を書き、人と人の関係はどうあるべきか、教会を形成する基本単位である家族はどうあるべきかを述べた。それがエペソ5章21節から6章にかけて展開されている。
・ここでは、夫と妻、父と子、主人と奴隷の関係が記されている。具体的には「妻は夫に仕えなさい」、「子は親に従いなさい」、「奴隷は主人に従いなさい」と説かれている。ある人は言う「ここでは弱者の従属が説かれている。この規定のために、古代・中世は暗黒の時代だった。近代はこの従属から解放され、自由・平等・博愛の理想を求めた所から始まった」。しかしそうだろうか。
・5章22−24節では、妻たちに対して「夫に仕えるように」命じられている。単に「夫に仕えなさい」ではなく、「教会がキリストに仕えるように、妻も夫に仕えなさい」と言われている。キリストが教会の頭であり、教会はその体であるように、夫は頭であり、妻はその体であり、信仰の行為として夫に仕えなさいと言われている。また夫に対しても、自分の存在の一部として、「妻を愛しなさい」と勧められている。古代において「妻は夫に従え」という教えはあったが、「夫は妻を愛せ」という教えはなかった。妻は夫の隷属物であり、愛する存在ではなかったからだ。
・しかもその愛が「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように」、「愛しなさい」と言われている。キリストは教会のために死なれた。「夫も妻のために死になさい」と言われている。もはや単なる道徳の教えではなく、信仰の行為として仕えることが求められている。だから牧会者は言う「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(5:21)。彼は続ける「私たちは、キリストの体の一部なのです。それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。私は、キリストと教会について述べているのです」(5:30-32)。
・この世では、男女がそれぞれふさわしいと思う相手を求めて結婚し、子が生まれて家族が形成される。結婚したが、ふさわしくないと思えば離婚して、新しい相手を求める。しかし、エペソ書はそれを否定する。結婚とはバプテスマや聖餐式に等しい信仰の行為、サクラメントなのであり、夫が妻を変える行為、すなわち離婚や不貞は妻を傷つけるだけでなく、自分の信仰をも否定する行為となる。現実の私たちはクリスチャンになっても、離婚したり、相手を裏切ったりする。それにもかかわらず、結婚とは信仰の決断であることを知る必要がある。このような結婚観に基づいて、「妻は夫に、夫は妻に仕えなさい」と言われる。妻が夫に従うだけでなく、互いに仕え合う、そういう相互依存の関係が結婚なのである。
・6章では子どもに対して「両親に従いなさい」と説かれており、6章5節からは、奴隷は「主人に従いなさい」と説かれている。牧会者は何故、子どもや妻に従属を勧めるのだろうか。それは従属する以外に、彼らの生きる道がなかったからだ。子どもは親なしでは生きることは出来ず、妻は夫に従うしか生計を立てる方法はなかった。他に選択肢がない状況下であれば、それを主が与えて下さった道として積極的に選び取りなさいと牧会者は勧めている。それが「置かれた場所で咲きなさい」との言葉である。
−ラインホルド・ニーバの祈り「神が置いて下さった所で咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを示して生きることなのです。神がここに置いて下さった。それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。置かれている所で精一杯咲くとそれがいつしか花を美しくするのです。神が置いて下さった所で咲きなさい」。

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