2019年11月20日祈祷会(ヘブル7章、祭司として生きる)

投稿日:

1.祭司キリスト

 

・ユダヤ人の間ではイエスはレビ族の出身ではないから正統な祭司ではないとの批判があった。ユダヤ教の中核は罪の購いのための犠牲の奉献であり、執り行うのはレビ族の祭司に限定されていた。著者は人の立てた祭司制度が機能しなかったゆえに、新しい祭司=キリストが立てられたのだと主張する。

-ヘブル7:11-15「もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですから、いったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょう・・・私たちの主がユダ族出身であることは明らかです・・・このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです」。

・メルキゼデクは創世記に登場する。その意味は義の王、平和の王である(メルク=王、ゼデク=義、サレム=平和)。アブラハムはメルキゼデクから祝福を受け、彼に捧げものを捧げた。

-ヘブル7:1-3「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」。

・アブラハムはメルキゼデクに十分の一を捧げ、メルキゼデクから祝福を受けた。そのアブラハムからイサク、ヤコブが生まれ、ヤコブからレビが生まれ、レビ族からモーセとアロンが出た。とすれば、地上の祭司であるレビ人もまたメルキゼデクに捧げものをし、彼から祝福を受けたことになるのではないかと著者は説く。

-ヘブル7:4-10「族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです・・・レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです・・・十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります」。

・神はモーセの律法とアロンの祭儀によってイスラエルを救おうとされたが、人間の罪のため、それは出来なくなった。それゆえにアロンの系統とは別な祭司(メルキゼデク=キリスト)を立てられ、新しい救いを計画されたとヘブル書は語る。

-ヘブル7:16-19「・・・この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である』と証しされているからです。その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。律法が何一つ完全なものにしなかったからですしかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。私たちは、この希望によって神に近づくのです」。

 

2.祭司として他者のために生きよ

 

・へブル7章の議論はユダヤ人以外にはわかりにくい。著者は旧約聖書的土台の上に、キリストにある福音の奥義を語るからである。ユダヤ人にとっては祭司がレビ人であるのは当然であり、「イエスはレビ人ではないから祭司ではない」と主張されていた。それに対して著者はレビ人でないメルキゼデクこそ本当の祭司であり、レビ人の祖に当たるアブラハムもこれを拝んだとして、イエスが「レビ人を超える祭司である」と主張する。なぜこのような議論がなされるのか、それは旧約の世界では律法を全うしない者は滅びるしかなく、人は律法を守ることが出来ないからである。律法は人を救い得ない。パウロは「律法は人に罪を知らせ、悔い改めに導く役割しかない」と語る。

-ローマ3:9-20「では、どうなのか。私たちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです・・・律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。

・人が律法=自力で救われないとしたら、救いは恵みによるしかない。だから、神はキリストを送られ、キリストの贖いにより救いの道が開かれたと著者は主張する。キリストの到来によって、祭司職と契約に根本的な変更が起こったと著者は語る。

-ヘブル7:27-28「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです」。

・律法は人間を立てて大祭司にしたが、福音は永遠に全うされた御子を立てて大祭司にした。この大祭司キリストを通して救済の道が開かれた。この方は今も天におられ、私たちのために執り成しをされている。他方、人間の祭司は死によってその役割を終える。「永遠の大祭司キリストを捨てて、死にゆく祭司の世界であるユダヤ教に戻ろうとするな」と著者は訴える。

-ヘブル7:22-26「このようにしてイエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」。

 

3.ヘブル7章の黙想

 

・へブル7章は旧約の祭司制度が行き詰ったため、新しい祭司としてキリストが立てられたことを詩編110編の引用で証しする(7:16-19)。著者は5章においても詩編110篇を引用してイエスこそメシアであると主張する。へブル書において詩編110編は大きな意味を持つ。

-ヘブル5:5-6「同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、『あなたは私の子、私は今日、あなたを産んだ』と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、『あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である』と言われています」。

・詩編110編は、元来はダビデ王朝の王たちの即位式において歌われた詩とされる。王の即位式においては油が注がれ、王は神の代理人として神の右に座る者とされた。

-詩編110:1-4「わが主に賜った主の御言葉。『私の右の座に就くがよい。私はあなたの敵をあなたの足台としよう・・・主は誓い、思い返されることはない。『私の言葉に従って、あなたはとこしえの祭司、メルキゼデク(私の正しい王)」。

・この王の即位式の詩がやがてメシア預言となって行く。この詩にふさわしい王は現実の歴史の中にはいなかった故に、新しい救い主メシアが待望されていくのである。

-列王記下21:13-15「私はサマリアに使った測り縄とアハブの家に使った下げ振りをエルサレムに用いる。鉢をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、私はエルサレムをぬぐい去る。私はわが嗣業の残りの者を見捨て、敵の手に渡す・・・彼らは先祖がエジプトを出た日から今日に至るまで私の意に背くことを行い、私を怒らせてきたからである」。

・パウロはイエス・キリストこそメシアであったことの論拠として詩編110編を用いた。

-第一コリント15:25-28「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。『神は、すべてをその足の下に服従させた』からです。すべてが服従させられたと言われる時、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。すべてが御子に服従する時、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」。

・ペテロもまたイエスこそメシア=キリストであることの論証として詩編110編を用いた。

-使徒2:34-36「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています『主は、私の主にお告げになった。私の右の座に着け。私があなたの敵をあなたの足台とする時まで』。イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。

・祭司とは神と人との間を執り成す役割を持つ。牧師だけでなく、信徒もまた祭司として生きるように招かれている。人生にはいろいろな生き方がある。「人として生まれる人生」、「人として生きる人生」、それらは自己のために生きる道だ。それに対し、「人を生かす人生」、「人を生む人生」がある。それが祭司=執り成し者としての人生だ。「人を生かし、人を生んでいく」人生を目指せと言われている。

-第一ペテロ2:9「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2019 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.