1.知恵によらないパウロの宣教
・コリント教会はパウロが設立し、アポロがその後を継ぎ、アポロが去った後も、教会は成長していた。しかし、教会の成長と共に、多くの問題が生じていた。問題の一つは教会内の党派争いだった。ある者たちは「私はパウロにつく」と言い、別の者たちは「私はアポロに」、さらには「私はペテロへ」という分裂騒ぎが起きていた。パウロは人々を戒める手紙をコリントに送った。
−1コリント1:11-13「あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『私はパウロにつく』『私はアポロに』『私はケファに』『私はキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。」
・この世の知恵は人を支配することを目的とする。だから知恵と知恵がぶつかり合い、争いが生まれる。神の知恵は人に仕えることを目的とする。パウロが求めたものはこの神の知恵であった。
−1コリント2:1「兄弟たち、私もそちらに行った時、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」。
・パウロは先にアテネで伝道し、そこでは哲学や論理学の助けを借りた堂々たる説教をしたが、アテネの人々は受け入れず、パウロは失意の内にコリントに来た(使徒17:32以下)。だからパウロは語る。
−1コリント2:2「何故なら、私はあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行った時、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」。
・コリントでは、先に来ていた「プリスカとアキラ」の協力のもと、パウロは再び福音を語り始める(使徒18:1-8)。パウロはコリントでは「十字架につけられたイエス・キリスト」だけを語り、その結果回心者が次々に起されていった。パウロは学問を修めた知者だった。しかし、彼はそれらの知恵の一切を捨てて、ただ神から示されたことだけを語った。その時、「人の言葉が神の言葉になりうる」ことを知った。
−1コリント2:4-5「私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」。
・人の知恵ではなく、霊によって語るとは、「十字架につけられたキリスト」を語ることである。十字架刑とはローマ帝国が奴隷の反乱を防ぐために考案した見せしめのための処刑法であり、屈辱以外の何物でもなかった。「十字架で処刑された方こそ私の救い主である」という言葉は、人間的に見れば愚かな事柄であり、人を説得する力を持ちえない。十字架の言葉は「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」だ。それでもパウロは自分が体験した復活の主との出会いを証した。このパウロの真摯な証が回心者を生んでいく。キリストのために命がけで語るパウロの生き様を見て、人々はパウロの語る福音を受け入れた。自分の栄誉を求めないパウロの姿勢に、人々は神の働きを見たのはないか。
2.隠された奥義としての神の知恵
・パウロは、「知恵」には、「世の知恵」と「神の知恵」の二つがあると語る。世の知恵とは哲学や倫理学に象徴されるような知恵であり、それは人間の理性に訴える。しかしパウロは「世の知恵」を語らない。何故ならば世の知恵は人を救う力がないからだ。プラトンやアリストテレスの言葉は人を納得させても、悔い改めに導くことはない。パウロは神の知恵である信仰の奥義を語る。
−1コリント2:6-7「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」。
・神秘としての神の知恵とは「十字架と復活」による人間の救済だ。それは人の期待や予測をはるかに超えており、世の知恵(理性)では理解できない事柄だ。パウロがアテネでキリストの復活を語った時、聞いていたギリシア人たちは「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒17:32)。十字架と復活の言葉は人間の理性では理解出来ない事柄なのだ。
−1コリント2:8「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう」。
・パウロは「神の知恵は、神が信仰者に与えて下さった聖霊によってのみ理解できる」と語る。
−1コリント2:14「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」。
3.神の知恵である「復活」を認めるか
・パウロの語る聖霊は、「魂」と言い換えられる。世の知恵は「人の理性」に訴えるが、神の知恵は「人の魂」を揺さぶる。現代でも、「神の知恵との出会い」は説教や聖書の朗読を通して起こる。魂が揺さぶられるような御言葉との出会い、人生を根底から変えてしまうような感動、これが神の知恵に出会った時の体験だ。聖書学者の佐藤研は、聖書の読み方には三人称的読み方(聖書を客観的に読む)、二人称的な読み方(聖書を主観的に読む)の他に、「ゼロ人称的な聖書の読み方」があるという。
−佐藤研「ゼロ人称的な読み方とは、新しい世界を開いてくれる主体に聖書の言葉自体が変化するという出来事です。一生に一度か二度、そのような危機の状態で、何かに出会った瞬間、いわば全身全霊で自分が飲み込まれるような、そして今まで全く思ってもいなかった何かが、ポカッと開くという、そのような体験的な読み方です」(佐藤研「現代における聖書の読み方」)。
・多くの人は「復活」を信じることが出来ない。聖書学者は十字架については語るが、復活については語らない。聖書学は歴史学であり、客観性を求められるが、「復活には客観性がない」からだ。
−荒井献「我々が歴史的に確認できるのは、イエスの十字架を境にして、その前に師を捨てた弟子たちが、その後に彼をキリストと信じ、宣教を開始したという事実だけである。彼らの振る舞いにこのような転換が起こった原因としてあげうるのは、彼らが復活のイエスの顕現体験を持ったということのみであって、イエスの顕現と復活そのものの史実性を問うことは無意味である」(荒井献「イエス・キリスト上」から)。
・客観性がない故に、多くの聖書学者は復活の歴史性を否定する。人間の知恵では、「復活」という神の知恵は承認できない。
−D.リューデマン「復活顕現にまつわる様々のテキストを批判的に調べてみて、実に驚くべき成果が得られた。すなわち、復活顕現はすべて例外なく幻であったということで説明がつくのである・・・この幻覚という現象を説明するために、イエスの復活を前提として受け入れる必要は全くない。現代の世界観に基づくものの見方を終始一貫してとるならば、イエスの復活を歴史上に実際に起こった出来事であるという考えは放棄せざるを得ない」(D.リューデマン「イエスの復活、その歴史、体験、神学」から」)。
・他方、組織神学者ユルゲン・モルトマンは復活を認める。それは彼自身が十字架を体験したからだ。
−モルトマン「私は1945年にベルギーの捕虜収容所にいた。ドイツ帝国は崩壊し、ドイツ文化はアウシュヴィッツによって破壊され、私の故郷ハンブルクは廃墟となっていた。私は神と人間に見捨てられように感じ・・・私の前には将来が見えてこなかった。その時、私は収容所でアメリカ人従軍牧師から聖書を一冊もらい、読み始めた。受難の物語が私の心を捕らえた。イエスの死の叫びの所にきた時、私はすべての人がイエスを見捨てる時にも、イエスを理解し、イエスの許に一人の方がいますことを知った。それは私の神への叫びでもあった。私はイエスによって理解してもらっているように感じ、神に見捨てられたイエスを理解し始めた。私は生きる勇気を奮い起こした。このかつての苦しみを共にした兄弟であり,罪責からの救済者であるイエスとの交わりは、それ以来もはや私を見捨てることはなかった。十字架にかけられたイエスこそ私にとってのキリストである」(「今日キリストは私たちにとって何者か」から)。
・自分自身が十字架を経験した人には復活が見えてくる。D.ボンヘッファーは語る「神の前に、神と共に、神なしで生きる」(獄中書簡集から)。イエスは神の前に歩み、神と共に生きられたが、最後には神なしで死んでいかれた。しかし神はそのイエスを起された。そこに私たちの希望がある。私たちの人生においても、「神はいるのか」と思えるほどの不条理や苦難がある。しかし神はその不条理の中から私たちを起こして下さった。私たちもそれを体験した。だから私たちは復活を信じ、どのような苦難の中にあっても希望を持ち続ける事ができる。それが私たちの信仰だ。