1.男は男として、女は女として
・パウロはキリストにおいては男も女もないと教えた。ある婦人たちは、この教えを受けて、礼拝で髪を解いて祈り、預言した。保守的な人々はこれを見て、ふしだらだと批判した。当時、婦人が公共の場所で髪を解くのは、娼婦的な行為だったからだ。
−1コリント11:5-6「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶる(髪の毛を結ぶ)べきです」。
・「結婚式にふさわしくない服装で参加する事は非礼だ」、同じように「ふさわしくない服装で礼拝に参加することは止めなさい」というパウロの勧告である。男女同権とは女が男の格好をすることではない。
−1コリント11:13-15「女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです・・・そのような習慣は、私たちにも神の教会にもありません」。
・ある人たちは、この箇所を、「女性は教会の指導者にふさわしくない」とパウロが言っているように解釈する。それは誤りだ。パウロは教会における女性の祈りや預言を禁止してはいない。
−1コリント11:11-12「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです」。
・保守的な教会はパウロのこの個所を根拠に、女性牧師を否定する。アメリカ最大の教派・南部バプテスト連盟では2000年制定の信仰告白の第6項・教会で「教会で奉仕する賜物は男性にも女性にも与えられているが、牧師の任については、聖書によって規定されているように、男性に限られている」と語る。明らかに聖書の偏った読み方と思われる。
−ガラテヤ3:28「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
2.主の晩餐式における分かち合いの大事さ
・コリント教会では、主の晩餐式において、裕福な人たちは自分たちだけで食事し、貧しい者に分かつことを怠るという問題があることをパウロは聞いた。当時の晩餐式は各人の持ち寄りによる愛餐会であった。
−1コリント11:18-20「あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています・・・それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」。
・当時、集会は個人の家で行われ、裕福な人は食堂の座席に招かれ、貧しい人は中庭に座って食事をし、豊かな人たちは自分たちの持参したパンとぶどう酒をまず食し、残りが貧しい人に分与されていたらしい。
−1コリント11:21-22「食事の時、各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。」
・この現実にパウロは怒る。彼は「何のためにあなた方は主の晩餐式を行うのか。キリストの十字架を覚えるためでないか。キリストは裕福な人のためだけに十字架につかれたのか」とコリントの人々に問う。
−1コリント11:23-26「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです・・・あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」。
・主の十字架によって私たちは一つとされた。だから、共に教会に集まり、共に食事をいただく。これを受け入れない人は主の晩餐式にあずかる資格はないのだ。
−1コリント11:27-29「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、パンを食べ、杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。
・ある人は、この箇所を「資格の無い人(無洗礼者)は晩餐をいただくことはできない」とする。日本基督教団はその教憲・教規で無受洗者の晩餐式参加を否定する。それは文脈を読み違えていると思える。ここで指摘されているのは貧しい人と食べ物を分かち合わない、裕福な人々だ。
−1コリント11:33-34「私の兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まる時には、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために」。
・主の晩餐式は次第に儀式化していった。しかし、晩餐式の本質は、個人的な招きではなく、共同で招かれていることだ。キリストの祝福をいただきながら、他者を祝福しない者は相応しくないと言われている。
−マタイ25:41-43「王は左側にいる人たちにも言う『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時、牢にいた時に、訪ねてくれなかった』」。
3.主の晩餐式とは何か
・パウロはコリントの人々に、「主の晩餐式」の意味を語る。パウロがここで語るのはエルサレム教会から伝承した式文であり、晩餐式の起源はイエスが弟子たちと共に取られた最後の晩餐にあることを示す。
−コリント11:23-25「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」。
・マルコ福音書も最後の晩餐についての伝承を伝える。
−マルコ14:25「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた『取りなさい。これは私の体である』。また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた『これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である』」。
・イエスは最後の時が来たことを悟り、労苦を共にしてきた弟子たちにお別れの挨拶をされた。「私はやがて殺されるが、私の流す血、裂く体は決して無駄にならない。そのことを覚えておいてほしい」と。そして最後に言われる「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してない」。私は死ぬが神の国はまもなく来る。その時また一緒に祝宴を開いてぶどう酒を共に飲もうと、イエスは弟子たちとお別れをされた。主の晩餐式はそれを想起する行為である。
・弟子たちも決意を新たにするが、イエスが捕らえられ、十字架で処刑された時には、恐怖にかられて逃亡した。しかし逃げ出した弟子たちに復活のイエスが現れ、弟子たちは再び集められ、イエスが復活された日曜日を「主の日」として礼拝を持ち、その礼拝の中核になったのが、イエスの死を想起する「主の晩餐式」だった。だからパウロは語る「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせる」(11:26)。主の晩餐式は「イエスが私たちのために死んで下さった」という過去の出来事を記念する。しかし同時に、「イエスが再び来て下さる。その時、神の国が来る」という将来の希望をも想起する。
・パウロは「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」(11:29)と語る。「ふさわしくないままに主の晩餐をいただく」とは、「兄弟たちと和解することなくパンをいただくこと、兄弟に対して恨みや軽蔑の念を持ったままで杯をいただくこと」を意味する。ただ2世紀以降教会制度が確立してくると、主の晩餐式は礼拝の中で行われる秘蹟(サクラメント)となり、信徒のみ(洗礼者のみ)に限定される。しかしパウロは「洗礼が主の晩餐にあずかる要件だ」とは述べておらず、「主の晩餐」にあずかるにふさわしいか否かは、各人の信仰的な反省に委ねるべき事柄である。
・また初代教会において「主の晩餐式」は共同の食事の中で祝われていた。それは愛餐(アガペー)と呼ばれ、この食事の交わり、分かち合いこそ、イエスが最も大事にされていたことを覚える。イエスは徴税人や罪人たちと共に食卓につき、そのために批判された。しかしイエスは人々との食卓の交わりを続けられた。「共に食べることこそ、神の国のしるし」として大事にされていたからだ。主の晩餐式が愛餐(アガペー)であれば、そこにおける参加者の洗礼の有無は無関係である。私たちは主の晩餐式を本来の姿である「愛餐」に戻す必要がある。だから私たちの教会では洗礼を受けていなくとも、「イエスを主と信じる」決断をされた方は、共に晩餐にあずかるように招く。それを通して「一つの体」になるためだ。「一つのパンを共に食べる」、そこに教会の交わりの原点がある。