1.イエスを殺す計略
・マルコ福音書は16章で構成されているが、14章から受難週の日々の出来事が克明に語られていく。マルティン・ケーラーは、マルコ福音書を「長い序文付きの受難物語」と表現した。1-13章は序文であり、本当の物語は14章から始まると理解した。14章は祭司長たちや律法学者はイエスを捕らえて殺す方策を立て始めている記事から始まる。
-マルコ14:1-2「過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、何とか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた。彼らは、『民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう』と言っていた」。
・その時、12弟子の一人ユダがこの動きに内応し、イエスを引き渡すことを祭司長たちに約束する。
-マルコ14:10-11「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた」。
2.ベタニアで香油を注がれる
・イエスもこの動きを感じておられ、最後の時が来たことを予感されている。そのような時に、ベタニア村での香油注ぎがあった。異常な出来事がここに描かれる。イエスはあえて、らい病者シモンの招待を受けて、食事の席に着いておられた。「重い皮膚病=らい病」は恐ろしい伝染病であり、それ故に神に呪われた不浄な病として、病人は人前に出ることを禁じられ、他者との会食等も禁じられていた。
-マルコ14:3「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられた時、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。
・その食事の席に一人の女が来て、ナルドの香油をイエスの頭に注ぎかける。この香油はヒマラヤ原産のナルドという植物から取られるものでオリーブ油に混ぜて使う。非常に高価なため、通常は一、二滴をたらして体に塗ったり、埋葬時に遺体や着物に塗ったりする。価格は300デナリもした。1デナリは労働者1日分の賃金で、300デナリは、今日で言えば200万円〜300万円に該当する。その高価な香油を入れた石膏の壷を女性は壊し、全てをイエスに注いだ。数滴を注ぐことも出来たのに、女性は壷ごと壊し、もう使い切るしか無い。異常な状況の中で物語が進行していく。弟子たちはこの行為を無駄遣いと批判した。
-マルコ14:4-5「そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。『なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに』。そして、彼女を厳しくとがめた」。
・死を前にしたイエスはこの行為を感謝して受けられる。彼女の行為は「時に適っている」故に美しい。彼女はイエスを愛している故に、死を前にしたイエスの心痛を感じることが出来た。
-マルコ14:6-8「イエスは言われた『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる・・・しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。この人は出来る限りのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた』」。
・この女性は誰だったのか。ヨハネはこの女性は「ベタニアのマリア」だったと言い(ヨハネ12:3)、ルカはこの女性を「罪深い女」と表現する(ルカ7:37)。「マグダラのマリアではないか」と考える人もいる。この女性は、以前は娼婦だったと聖書学者は想像する。ルカの「罪深い女」とは娼婦を指す言葉だし、何よりも300デナリもする香油を普通の女性が買うことが出来ない。かつて娼婦として社会からつまはじきされていた女性を、ある時、イエスが一人の人格を持つ人として対応してくれた。女性は震えるほどうれしかった。その時の感謝が女性にこの異常な行為をさせたのであろう。イエスは彼女のひたむきな行為を喜ばれた。彼女はイエスと一期一会の出会いをした。
−マルコ14:9「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
3.ユダの裏切りと最後の晩餐
・イエスと弟子たちは、最後の晩餐を過越しの食事としてとられた。それは犠牲の子羊をほふって食する時であり、イスラエルの解放を祝う時だ。イエスはイスラエルのための、「過越しの子羊」として死なれる。席上でイエスはユダの裏切りの予告をされ、ユダに「出て行って為すべきことをせよ」と言われる。
-マルコ14:18-20「一同が席に着いて食事をしている時、イエスは言われた『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている』。弟子たちは心を痛めて『まさか私のことでは』と代わる代わる言い始めた。イエスは言われた『十二人のうちの一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ』。
・ユダは積極的にイエスを裏切り、他の弟子たちは恐怖のためにイエスを見捨てることによって裏切る。弟子たちはそれを感じていた。だから彼らは、「まさか私のことでは」と自分自身を振り返る。
-マルコ14:21「人の子は、聖書に書いてある通りに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。
・イエスはパンを取り、感謝して、弟子たちに与えられる。聖餐(エウカリスト)と言う言葉は、感謝(エウカリスティア)から来る。聖餐の別名コムニオンは「交わり」を示す。
-マルコ14:22-24「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた『取りなさい。これは私の体である』。また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた『これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である。』」
・聖書学者の加山宏路はこの箇所を次のように言い換える。
-加山訳マルコ14:22-24「私は私自身をあなた方に与える。今、私がここで裂いてあなた方に渡すパンのように、ほどなく十字架で引き裂かれようとする私の体を、いや私自身をあなた方に与える。これを私と思って受け取りなさい。私は十字架につけられて血を流そうとしている。イスラエルの先祖たちが裂かれた動物の間で血の契約を立てたように、私の流す血、それが私の契約の徴だ。あなた方に与えるこのぶどう酒のように、私は私のいのちをあなた方に与える」。
・最後の晩餐におけるイエスの言葉は、私たちへの遺書だが、同時に私たちに希望を与える言葉でもある。この会食は弟子たちと取る最後の食事であるが、同時に死が終わりではなく、死を越えて神の国が来る、その時に「再び共に食卓につこう」という約束の言葉、死を越えた希望が最後に語られている。
−マルコ14:25「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」。
・聖書の中で、イエスを裏切るユダの行動と、その裏切りを察知しながら制止されなかったイエスの態度は謎めいている。太宰治は、ユダの一人語りの形式で、その謎を短編「駆け込み訴え」で書いている。ユダは他の弟子の誰よりも、イエスを愛し、イエスに心酔していた。だからこそ、自分の理想から外れていくイエスに失望し、裏切ったのだと太宰は解釈している。
・最後の晩餐は「あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」との言葉で始まり、「あなた方は私に躓くだろう」との言葉で終わる。人は弱さゆえに罪を犯すが、イエスは既に弟子たちを赦しておられる。
-マルコ14:27-28「イエスは弟子たちに言われた『あなたがたは皆私につまずく・・・しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く』」
・ペトロイエスの裏切り予告に激しく反発し、「決してあなたを裏切らない」と誓う。
―マルコ14:29-31「するとペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、私はつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう。』ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、御一諸に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った。」
・ペトロは、イエスの前で高言を吐き、やがてイエスを否認して悲しむ。
-ルカ22:60-62「ペトロは『あなたの言うことはわからない』と言った。まだ、言い終わらないうちに突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」
・この最後の晩餐を記念して、教会は聖餐式(主の晩餐)を行う。それはイエスの死を覚えるだけでなく、その復活を覚える時でもある。私たちは、信仰を持ってパンとぶどう酒をいただく時、復活の主が今ここに共におられると信じる。パンとぶどう酒は奇跡の食べ物ではないが、主が私たちのために死んで下さったことを信じる時、それは私たちを生かす恵みの食物になる。同時に主の晩餐式は、キリストがやがて来られる、神の国がまもなく来ることを待望する時でもある。
-1コリント11:26「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」。