1.結婚と離婚についてのイエスの教え
・イエス一行はガリラヤを通過し、ヨルダン川東側に向かった。イエスが集まって来た群衆に教えておられると、ファリサイ人が来て、「夫が妻を離縁するのは律法に適っているでしょうか」と質問した。
−マルコ10:1−2「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。」
・イエスはファリサイ人に即答されず、「モ−セは何と言っているか」と逆に問い返された。彼らは「離縁状を書けば離縁は許されると教えています」と答えた。
−マルコ10:3-4「イエスは、『モーセはあなたたちに何と命じたか』と問い返された。彼らは、『モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました』と言った。」
・離婚理由についてラビたちの間で論争があり、「姦通等の不品行だけに限るべきだ」と厳格に解釈するシャンマイ派と、「食物を焦がす」ことまで広く解釈するヒレル派が対立し、支持が集まっていたヒレル派の考え方では、夫が妻を嫌になればいつでも離縁することが出来た。それに対してイエスは反論された。
−マルコ10:5-9「イエスは言われた『あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ・・・神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』」。
・「人は男と女に造られ」、「二人は一体となって」、新しい生命を生み出す。結婚は神の創造の秩序による。しかし人は、己の欲望によってその秩序を破壊してしまう。それゆえに神は、「結婚が破綻する」場合に、弱い者が守られるようにモーセに指示された。離縁状は妻に再婚の自由を認める制度であり、夫の勝手を許すものではない。
−申命記24:1「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。
・イエスは「離婚の絶対禁止」を言われているのではなく、「男の身勝手な行為によって経済的、社会的困窮に妻を追いやるような離婚は許されない」と言われている。当時の女性は経済的には自立しておらず、夫に追い出されれば路頭に迷う。イエスはそれ故に、「そのような身勝手を神は許されない」とされた。
-マルコ10:10-12「弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた『妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる』」。
・注目すべきは、イエスは決して倫理を説かれたのではなく、福音を説かれたということだ。「小さき者をつまずかせるな」、「小さき者を受け入れよ」と言われた文脈の中で、「小さき者をつまずかせるような、身勝手な離婚」をイエスは禁止された。イエスの時代は圧倒的な男性優位社会であり、離縁にしても妻の側からの申し出や協議離縁等はありえず、離縁といえば「夫が妻を追い出す」ことだった。その文脈の中で語られた「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」を、状況のまるで異なる現代に適用して離婚を禁止するのは、間違った聖書の読み方であろう。カトリック教会はイエスの教えを倫理として受取り、離婚を禁止するが、離婚の自由がないところでは、本当の結婚の意味も失われていく。
2.子供を祝福する
・イエスに手を置いて祝福してもらいたいと、人々が子供を連れて来た。弟子達は彼らを叱った。しかし、イエスは「子供達を私のところに連れて来なさい」と命じられた。
−マルコ10:13-14「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」。
・イエスは弟子たちを「憤られた」。イエスは本気で怒られた。何故ならば、弟子たちがイエスのもとに来ようとしている子供たちを妨げたからだ。私たちが、教会堂で子供が騒いでうるさい時、その母親をたしなめるのも、本当は同じ行為であろう。母親は毎日の子育てで疲れている、その疲れをいやす為に教会に来て言葉をいただこうとしているのに、子供が騒ぎ、みんなからにらまれて、母親は話を聞くどころではない。母親を妨げているのは私たちだ。「子供を排除するのではなく、うるさくても良いから子供たちであふれている教会を造りなさい」と、イエスは言われている。
・神の救いは人間の業績にではなく、必要に応じて与えられる。だから助けを必要としている小さな者たちにこそ、神の国が約束される。「幼な子のようになる」とは、自分の弱さを認め、助けなしには生きていけないことを認めることだ。神を信じることの出来ない人は人を信じることも出来ないから、神の平安から放り出される。自分が弱いことを認め、その弱い存在のままで神に受けいれられている事を認める時、その弱さが強さになる。それが幼な子の強さであり、神の国に入る唯一の道である。
−マルコ10:15-16「『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない』。そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。
3.金持ちの男との問答
・次の「金持ちの男」の話も同じ文脈の中にある。イエスの処にある人が走り寄って来て尋ねた「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。
−マルコ10:17「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」
・彼は神の国=永遠の命を得ようとして、戒めをことごとく守ってきたが、平安がない。「何か足らない」と思ってイエスのところに来た。イエスは彼に「持っているものを捨てて従いなさい」と言われた。
−マルコ10:19-21「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという掟をあなたは知っているはずだ』。すると彼は『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。イエスは彼を見つめ慈しんで言われた『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい』」。
・「売り払いなさい」、「施しなさい」、という言葉で彼の問題点が浮き彫りになる。彼は自分の救いのために努力してきたが、その中に「他者」という視点が欠けていた。だから彼に信仰の喜びはなかった。それを知るために、「捨てなさい」と命じられる。しかし彼はあまりにも多くを所有していた。
−マルコ10:22「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。
・イエスは「財産のある者はその財産に縛られるため、神の国に入るのは難しい。それはらくだが針の穴を通るより難しい」と言われた。
−マルコ10:23−25「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは何と難しいことか。』弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスはさらに言葉を続けられた。『子たちよ、神の国に入るのは何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」
・弟子達は、「それなら神の国に入れる者は誰もいない」と思ったが、イエスは「人間にはできなくても、神にはできる」と言われた。
−マルコ10:26−27「弟子たちはますます驚いて、『それでは誰が救われるだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが神にはできる。神は何でもできるからだ。』」
・捨てることが勧奨されているのではない。イエスは全てを捨てたペテロを賞賛されない。イエスの神の国運動も、それを支える裕福な人たちがいて可能になった。与えられたものを恵みとして用いることが出来るかどうかが問われている。人はすべてを失くして初めて「何が大事なのか」を知る。だから「捨てることが」必要なのだ。井村一清氏は1947年に生まれ、医者になるが、1979年32歳の若さで悪性腫瘍のために亡くなる。彼は亡くなる前に手記を著し、その中で「あたりまえ」という詩を歌う。
−井村和清「あたりまえ」から「こんなすばらしいことを、みんなはなぜ喜ばないのでしょう。あたりまえであることを。お父さんがいる、お母さんがいる。手が二本あって、足が二本ある。行きたいところへ、自分で歩いてゆける。手をのばせば、なんでもとれる。音がきこえて、声がでる。こんなしあわせはあるでしょうか。食事がたべられる、夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる。空気を胸いっぱいにすえる、笑える、泣ける、叫ぶこともできる。走りまわれる。みんなあたりまえのこと。こんなすばらしいことを、みんなは決して喜ばない。そのありがたさを知っているのは、それを失くした人たちだけ。なぜでしょう、あたりまえ」。