1.手の萎えた人をいやす
・イエスは繰り返し、安息日に病の人をいやされた。これは安息日を絶対の聖日(仕事をしてはいけない日)とする律法学者やファリサイ人に対する挑戦であり、ユダヤ人たちはイエスを異端の教師と見始めていた。そのイエスが安息日に会堂に入られた。イエスを待ち受けていたのは、安息日にいやしの業を行うかどうかを試みるファリサイ派の人々の視線だった。
−マルコ3:1-2「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気がいやされるかどうか注目していた。」
・イエスは試みる者たちの視線にためらうことなく、手の萎えた人に近づかれた。そして監視するファリサイ人たちに、「安息日を守るためなら人の命を救わなくても良いのか」と問われた。彼らは一言も答えなかった。
−マルコ3:3-4「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。」
・イエスはその日が安息日であるかを問わず、病人をいやされた。無視されたファリサイ派とヘロデ派の人々は、イエスを抹殺すべく共同謀議を始めた。
−マルコ3:5-6「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと手は元通りになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一諸に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」
・イエスは律法を犯すことが死の危険を伴うことを承知の上で、安息日に人をいやされる。イエスは自分の身を削って人の命を救われる。福音書記者はそのイエスに、「苦難の僕」の姿を重ねる。
−マタイ8:16-17「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』(イザヤ53:4)」。
・イエスは安息日に麦の穂を摘んで食べた弟子たちを批判するファリサイ人に対して、「安息日は、人のために定められた」と答えられた。安息日のいやしを非難する人々に対しては「安息日に許されているのは、善を行うことではないのか」と問いかけられた。イエスを動かしているのは神への愛と隣人への愛だ。神は人間の休息のために安息日を設けて下さった、それを人は勝手に細かい規定を作り、煩雑にして、束縛の規則に変えてしまった。それは神の御心に反するのではないかと問われた。
・ファリサイ人たちも緊急の場合は安息日規定を破ることを認めていた。当時のラビは言う「人間の命を救うことは安息日を押しやる」。しかしイエスは更に一歩を踏み込まれる「安息日に行うべきは善か悪か」、父なる神は安息日も働いておられる、そうであれば安息日に善を行うことは、何もしないことに優るのではないか」。隣人愛の要求が律法に新しい命を吹き込んだ。しかし、ファリサイ人や律法学者には受け入れがたい要求だった。
2.岸辺の群衆へ
・イエスのガリラヤ湖周辺での初期伝道は、熱狂的な大群衆を集めた。19世紀の研究者カイムは、ガリラヤ湖畔から始まる初期伝道が民衆から歓迎を受けたことから、その時期を「ガリラヤの春」と形容している
−マルコ3:7-8「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、テイルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」
・イエスのいやしを求める群衆がイエスを囲み、イエスは押し潰されそうになったので、小舟で湖上に逃れ、舟の上から、岸辺の群衆に福音を説かれた。
−マルコ3:9-10「そこでイエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。」
・汚れた霊に憑かれた人々が、イエスの前にひれ伏し、赦しを乞うた。
−マルコ3:11-12「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。イエスは自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」
・群集はいやしを求めてイエスに殺到する。彼らはイエスを救い主として拝するために来たのではなく、現世利益を求めてきた。しかしイエスは拒絶されない。「飼う者のない羊」のような彼らを憐れまれたからだ。
-マタイ9:35-36「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
3.十二人を選ぶ
・イエスは弟子の中から十二人を選び、山上へ集め、使徒に任じ、宣教と悪霊払いの使命を託した。
−マルコ3:13-15「イエスは山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」
・イエスが選んだ十二という数は、神の民を象徴するイスラエル十二部族に基づく。イエスが十二人を使徒に選んだのは、彼ら十二人を新しい神の民の中核として用いようと願われたからである
−マルコ3:16―19「こうして十二人は任命された。シモンにペトロという名を付けられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち『雷の子ら』という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それにイスカリオテのユダ、このユダがイエスを裏切ったのである。」
・招かれたのは漁師たち(ペテロ、ヨハネ、ヤコブ)、徴税人(マタイ、アルパヨの子ヤコブ)、熱心党員(シモン)たちであった。社会の中の無学な者、罪人とされている者たちが招かれた。その中にはイスカリオテのユダもいた。私たちもこの招きの中にある。
−?コリント1:26-29「兄弟たち、あなたがたが召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」。
・最初に私たちは、福音を聞く者として招かれる。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。私たちは自分の悩み、悲しみをイエスのもとに持ち込んで、慰めてもらった。ここに留まったままではいけない。恵みを受けた者は、次に恵みを与えるものになることが期待されている。私たちは、最初は慰められる者として、次には弟子として招かれる。
-マルコ8:34「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。
・私たちはこの招きを聞き流すことも出来る。しかし、私たちが招きに従わなかった時、私たちは呼び集められた者の群=教会から、また信仰から脱落していく。弟子になるとは、完全な者になることではない。十二弟子たちさえイエスが捕らえられた時は、皆逃げた。それでも彼らはイエスを離れず、復活のイエスに出会って、根本から変えられた。「キリストはその生涯をキリストに従う者たちの生活の中で、更に生きたもう」。キリストは私たちを通して、その業をなされる。私たちは、キリストの業に参加するように招かれている。篠崎教会の2017年度祈りの課題は、「会員一人一人が信徒から弟子になることが出来ますように」との祈りである。