1.エフェソでの宣教
・パウロはコリントで1年半宣教し、その後、エフェソに来た。そのエフェソで彼は「未成熟な信仰」を持つ信徒たちに出会った。彼等はヨハネのバプテスマを受けていたが、イエスのバプテスマを知らず、聖霊の存在とその働きも知らなかった。
―使徒19:1−3「アポロがコリントにいた時のことである。パウロは内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い、彼らに、『信仰に入った時、聖霊を受けましたか』と言うと、彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言った。パウロが、『それなら、どんなバプテスマ(洗礼)を受けたのですか』と言うと、『ヨハネのバプテスマ(洗礼)です』と言った。」
・エフェソではアレキサンドリア生まれのアポロが活動していた。アポロは「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」(18:25)と使徒言行録は記す。洗礼者ヨハネは罪の悔い改めを強調した(ルカ3:3)。罪を悔い改めることは救いの第一歩であるが、悔い改めても新しい命をいただかないと、本当の救いにはならない。恐らく、アポロはヨハネのように禁欲生活をしていたが、その信仰に喜びがなかった。宣教も罪を責めることに急で、救いの喜びを伝えるものではなかったのだろう。エフェソの信徒たちが聖霊を知らなかったのも、このアポロに導かれたためだった。彼らは再教育される必要があり、パウロは彼らに教え、バプテスマを授けた。その後、パウロが彼らの頭の上に手を置くと、彼らに聖霊が降った。
−使徒19:4−7「そこでパウロは言った。『ヨハネは自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を授けたのです。』人々はこれを聞いて主イエスの名によってバプテスマ(洗礼)を受けた。パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、この人たちは異言を話したり、預言をしたりした。この人たちは、皆で十二人ほどであった。」
・パウロは2年間エペソで伝道した。その結果エペソの多くの者たちが福音に接した。
−使徒19:8−10「パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、頑なで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちを退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた。このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者はユダヤ人であれギリシア人であれ、誰もが主の言葉を聞くことになった。」
・信仰者とそうでない人を分けるのは、その生活に信仰の実があるかどうかだ。信仰の実とは、罪を赦された喜びを持って、新しく生きることだ。過去の罪が赦されただけでは本当の救いではない。新しい命に生かされることがなければ、過去と同じ繰り返しに終わる。救いは水のバプテスマを受けただけでは完成しない。そこに霊のバプテスマを受ける意味がある。もし私たちが、バプテスマを受ける前と受けた後の実際の生活が変わっていなければ、その信仰には問題があると聖書は指摘する。
-?ヨハネ3:17「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」。
2.ユダヤ人の祈祷師たち
・19章11節からルカは「パウロの行った様々な奇跡が人々を驚かした」と記す。
−使徒19:11−13「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身につけていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出て行くほどであった。ところが各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師の中にも、悪霊どもに取りつかれている人に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスの名によって、お前たちに命じる』と言う者があった。」
・エペソにはアルテミスの神殿があった。その神殿は世界の七不思議と呼ばれたほど有名で、多くの参拝客が集まり、神殿で発行されるお守りは、旅行者には安全を保証し、子供のない者には子供を授け、病気の者は癒され、商売繁盛を願う者にはそれがかなえられるという触書で、人々は競って、呪文と魔よけを書いたお守りを手に入れた。エペソは異教的迷信、魔術の中心地であった。パウロの癒しの業を見て、多くの人が金儲けのために、イエスやパウロの名前を使って、癒しを行おうとした。
−使徒19:14−16「ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊が彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、お前たちは何者だ。』そして悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押えつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した。」
・癒しの奇跡はいつも人の心を動かす。人々はパウロの奇跡を見て入信したとルカは記す。
−使徒19:17―20「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いに崇められるようになった。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した・・・このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」
・神の言葉から離れて、病気の癒し等の現世利益だけを求め始めた時、信仰は魔術化する。もし、私たちが病の癒しを求める時、「御心に従う」ことを第一にするならば、聖書が教える祈りになる。
−キリスト者の祈り「神様、私の病を癒してください。健康になって再びあなたのために働ける身となさせて下さい。しかし、もし、私の病を癒さないことがあなたの御心であれば、この病を通して、あなたが何をしようとしておられるかを教えて下さい」。
3.エフェソでの騒動
・アルテミス神殿の銀細工を販売している者たちは、パウロの宣教によって、商売が邪魔されたとパウロを告発する。宗教はある人々にとっては生計の手段であり、妨害者は排除される。
−使徒19:23−27「そのころ、この道のことでただならぬ騒動が起こった・・・デメトリオという銀細工師が、アルテミス神殿の模型を銀で造り、職人たちにかなり利益を得させていた。彼は、この職人たちや同じような仕事をしている者たちを集めて言った『諸君、御承知のように、この仕事のお陰で、我々はもうけているのだが、諸君が見聞きしている通り、あのパウロは「手で造ったものなどは神ではない」と言って、エフェソばかりではなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。これでは我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。』」
・デメトリオの言葉により、町中が大混乱に陥り、収拾がつかなくなる。
−使徒19:28−32「これを聞いた町の人々はひどく腹を立て、『エフェソ人のアルテミスは偉い方』と叫び出した。そして、町中が混乱してしまった。彼らはパウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。パウロは群衆の中へ入っていこうとしたが、弟子たちはそうさせなかった・・・群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった。」
・騒動は町の書記官の冷静な判断で収まった。
−使徒19:35−40「そこで、町の書記官が群衆をなだめて言った『エフェソの諸君、エフェソの町が、偉大なアルテミスの神殿と天から降って来た御神体との守り役であることを知らない者はないのだ。これを否定することはできないのだから、静かにしなさい。決して無謀なことをしてはならない・・・デメトリオと仲間の職人が、だれかを訴え出たいのなら、決められた日に法廷は開かれるし、地方総督もいることだから、相手を訴え出なさい。それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである。本日のこの事態に関して、我々は暴動の罪に問われるおそれがある。この無秩序な集会のことで、何一つ弁明する理由がないからだ。』こう言って書記官は集会を解散させた。」
・使徒19章では、伝道を続けるパウロの前に三つの問題が提起される。一番目はヨハネのバプテスマしか知らない信徒の問題、二番目は魔術が関わる似非宗教の問題、三番目は女神アルテミスに関わる偶像崇拝の問題である。いずれも現代のキリスト教が直面する問題でもある。それは信徒教育の問題であり、現世利益を求めるかどうかの信仰が問われる問題であり、宗教が陥り易い偶像崇拝からいかにして信仰の純粋性を守るかという問題である。ボンヘッファーは歌う「たとい主から差し出される杯は苦くとも、怖れず感謝を込めて、愛する手から受けよう」(新生讃美歌73番「善き力にわれ囲まれ」)。受け取るものが苦い杯=十字架であっても喜んで受けようという信仰がここにある。このような信仰はいつの世には不人気だが、聖書の伝える信仰だ。この信仰が2000年間の福音の継承を可能にしてきた。これが聖霊を受けた生き方ではないかと思う。魔術を捨てよう、現世利益の信仰から解放されよう。神に開かれた生活は人へも開かれていくことを知ろう。