1.皇帝への税金
・祭司長や長老たちは神殿粛清を行ったイエスを殺そうとしたが、民衆がいたので果たせなかった。そのため彼らは、イエスを罠にかけるためにローマへの納税の可否を問うた。
−ルカ20:20「そこで機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉尻をとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。」
・ユダヤは紀元6年にローマの直轄領となり、ユダヤ住民は直接ローマに税金を納めることとなった。しかしローマ支配を喜ばない者たちは熱心党を中心にローマへの納税を拒否し、反乱を起こしていた(ガリラヤのユダの反乱等)。反乱は武力で抑圧されたが、民衆の間には根強いローマへの反感が広がっていた。その中で仮にイエスがローマへの納税を拒否すれば反乱者としてローマによって処罰され、逆に納税を認めれば民衆の信認を失う。「皇帝に税金を納めてもよいか」という問いには巧妙な罠が仕掛けられていた。
−ルカ20:21-22「回し者らはイエスに尋ねた。『先生、私たちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて、神の道を教えておられることを知っています。ところで、私たちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。』」
・イエスは彼らの意図を見抜かれ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられた。当時流通していたローマのデナリ銀貨には「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス」と刻まれていた。「皇帝のものは皇帝に」とは世の秩序に従いなさいということだ。しかしそれが神の主権を損なうものであれば、「神のものは神に返しなさい」とイエスは言われる。
−ルカ20:23-26「イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。『デナリオン銀貨を見せなさい。そこにはだれの肖像と銘があるか。』彼らが『皇帝のものです』と言うと、イエスは言われた。『それならば皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』彼らは民衆の前でイエスの言葉尻をとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。」
・この問題は普遍的な広がりを持つ。「神の支配下にある信仰者は、世の政治的支配に対してどう向き合うのか」という問題である。私たちは、基本的には世の秩序は神が定められたものとして従う。パウロもローマ書の中で世の権威に従うように勧める。
−ローマ13:1-7「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです・・・すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」。
・同時に私たちは神の子とされ、国籍を天に持つ。地の国の支配者が神の委託を正しく守らない時は、私たちは神の国の住民として、地の国には従わない。私たちがまず畏れるべきは神であり、人ではない。「神は畏れる」存在であり、「皇帝は敬う」存在に過ぎない。
−使徒言行録4:18-19「(大祭司たちは)二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。』」
2.復活についての問答
・死者の復活については、サドカイ派の人々はこれを否定し、ファリサイ派の人々は肯定していた。復活を信じないサドカイ派の人々が、イエスに復活論争をしかけてきた。
−ルカ20:27-28「復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。『先生、モ−セは私たちに書いています。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の後継ぎをもうけねばならないと。」』」
・サドカイ派は大祭司や祭司長たちを中核とした保守派で、モーセ五書のみを教典とし、五書にない教えは認めなかった。そのため比較的新しい黙示思想(イザヤ26章、ダニエル12章等)から生まれて来た復活は否定していた。他方ファリサイ派は霊魂の不滅や終わりの日の復活を認め、サドカイ派と常に論争していた。申命記25章にはレビラート婚の規定があり、跡取りの男子を残さずに死んだ家長の妻は、その弟が兄嫁を引き受けて兄ために子を残す習慣があった(男子による家の継承)。極端な場合、長男の妻は次男や三男の妻にもなりうる。その場合、「復活したら困るではないか」とサドカイ派は主張していた。
−ルカ20:29-33「『七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子がないまま死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。』」
・イエスは彼らがもっている復活に対する基本的考えの過ちを指摘した。
−ルカ20:34-36「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。』」
・イエスは出エジプト記を引用して、神は「死んだ者の神ではなく生きた者の神である」と答えられた。
−ルカ20:37-38「『死者が復活することは、モ−セも「柴」の箇所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての者は神によって生きているからである。』」
・「議論ではイエスに勝てない」と彼等は気付き、それ以上の質問をする者がいなくなった。
−ルカ20:39-40「そこで、律法学者の中には、『先生、立派なお答えです』と言う者もいた、彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。」
・結婚は死ぬべき人間が子を残す制度であり、死がない復活後の世界においてなお結婚を前提にするのはおかしいとイエスは言われる。人々は復活についての明確な理解をしていないから、このようなおかしな問いをする。復活に預かった者はもう死なない。アブラハムもイサクもヤコブも生きている。
−?コリント15:35-44「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、聞く者がいるかも知れません・・・自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」
3.ダビデの子についての問答
・人々は「メシアはダビデの子孫から生まれる」と信じていた(イザヤ11:1-10)。しかしダビデはメシアを「主」と呼んでいる。そうであれば「メシアはダビデの子ではなく、ダビデの主ではないか」とイエスは言われる。イエスは政治的・軍事的解放者としての「ダビデの子」という呼称を拒否された。
−ルカ20:41-44「イエスは彼らに言われた。『どうして人々は「メシアはダビデの子だ」と言うのか。ダビデ自身が詩編の中で言っている。「主は、私の主にお告げになった。『私の右の座に着きなさい。私があなたの敵を、あなたの足台とする時まで』と。」このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。』」
・当時のユダヤ教では「メシアはダビデの子」と呼ばれ、ダビデが築いた栄光のイスラエル王国を回復するものと期待されていた。エルサレム入城時、人々はイエスを「ダビデの子」として歓呼して迎えた。しかしイエスが示された神の国は地上の王国を超えるものであった。その後キリスト教がギリシャ世界に広がって行く時、イエスの呼称は「ダビデの子」から、本来の「神の子」に変わって行く。
-ローマ1:3-4「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。」
4.律法学者を非難する
・ルカはイエスの律法学者批判を簡潔に紹介する。ここに批判されているのは彼らの功名心と貪欲である。
-ルカ20:45-47「民衆が皆聞いている時、イエスは弟子たちに言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。』」
・ユダヤ教と対立していたマタイの教会は、ルカ以上に激しく律法学者批判を行う。その律法学者批判は「律法学者とファリサイ派」を、「教職者」と読み替えれば、今日でも大事な警告になる。
−マタイ23:13−15「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人も入らせない。律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」。