1.小さき者をつまずかせるな
・イエスは「小さき者をつまずかせるな」と言われた。
−ルカ17:1-2「イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は。これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げこまれてしまう方がましである。』」
・ルカが資料として用いた原典のマルコ福音書では、「小さき者」とは文字通りに子供であり、「誰が一番偉いかを論争する弟子たちに対して、子供を受け入れなさい」という文脈の中で語られる。
-マルコ9:33「イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。』そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。』」
・しかしルカはそれを教会の中で罪(過ち)を犯す兄弟への赦しの問題と理解し、兄弟が罪を犯しても赦しなさいと語る。
-ルカ17:3-4「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
・「つまずかせる」とは「罪を犯させる」という意味で、ギリシャ語スカンダロン、それがスキャンダルという英語の語源になった。教会には信仰に入って間もない人も来る、その人たちは教会の指導者の言動を見て、教会につまずく。牧師が「生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15:11)と説教しながら、個人生活において金銭から解放されていなければ、人々は牧師の説教を聞けなくなる。教会の中に「私はパウロに、私はアポロに」(第一コリント1:12)という内部の争いがあれば、失望して教会を去っていく人が出る。そのようなスキャンダラスな行為をしてはいけない、人々に天国の門を閉じるような行為をしてはいけないと戒められている。
2.信じる時に何が起こるか
・イエスは「限りなく他者を赦せ」と言われる。そのイエスの教えを聞いた弟子たちは、「自分たちが人を赦せないのは、信仰が足りないからだ」と思い込んでしまった。だから彼等は、「私たちの信仰を増してください」とイエスに願った。しかしイエスは言われた「信仰は誰かによって増し加えられるものではない。たとえ、からし種一粒ほどの小さな信仰でも、不可能を可能にできるのだ」と教えられた。
−ルカ17:5-6「使徒たちが、『私たちの信仰を増してください』と言った時、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても言うことを聞くであろう。』」
・W.バークレーはこの箇所を次のように説明する「何かをやるに当たって“そんなことはできっこない”と言いながらやるなら、それはおそらく達成されない。しかし、“ぜひともそれをしなくては”と言う気持ちでことに当たるなら、きっとそれを成就する機会も与えられる。我々は単独でことに当たっているのではない、神が共にいて力を与えてくださることを常に想起せねばならない」(W.バークレー「ルカ福音書」)。
・小さな信仰であっても、弟子として従い続ければ、ふさわしく生きることができるとイエスは励ましておられる。信仰は量や大きさで計れるものではなく、信仰は「信じるか信じないか」の問題である。信仰とは信じて為し、その結果を無心に受けとめることだ。イエスは委ねて事を行う信仰の秘訣を、主人と僕のたとえで教えられる。
―ルカ17:7-9「『あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来た時、「すぐ来て食事の席に着きなさい」と言う者がいるだろうか。むしろ、「夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、私が食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい」と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。』」
・弟子たちには自覚すべきことが二つある。一つは神に託された使命の自覚である。もう一つは自我を捨てて僕として従う自覚である。イエスは、この二つの自覚を、欠けてはならぬ二つの信条を「からし種のたとえ」と「主人と僕のたとえ」を用いて、弟子たちに教えられたのである。
−ルカ17:10「『あなたがたも同じことだ、自分に命じられたことをみな果たしたら、「私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言いなさい。』」
・ジョン・ダンという英国の詩人は「誰がために鐘は鳴る」という有名な詩を書いた。彼は英国国教会の牧師であった。彼の祈りが残されている「あなたは他者を罪に誘い、私自身の罪で彼らを招く戸口としたあの罪を赦してくださいますか。あなたは私がひどく溺れ、ようやく一、二年前に遠ざけたあの罪を赦して下さいますか。あなたが赦して下さった時にも、あなたの赦しは終わりませんでした。何故なら、私にはさらに多くの罪があるからです」。
3.らい病を患っている十人の人をいやす
・らい病人のいやしが11-19節に語られる。エルサレムへの途上で、らい病者たちがイエスのいやしを乞い求めた。らい病(ヘブル語ツァーラト)は伝染病として、また宗教的に不浄な病として、人々から忌み嫌われ、「自分はらい病なので近寄らないでくれ」と叫ぶことを義務付けられていた(レビ記13:45-46)。だから彼らは遠くからイエスに呼びかけている。
−ルカ17:11-13「イエスはエルサレムへ上る途中、ある村へ入ると、らい病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、私たちを憐れんでください。』と言った。」
・イエスは彼らを憐れみ、その病をいやされた。律法では、らい病をいやされた者は祭司の所に行って体を見てもらい、いやされたことが確認されて清めの儀式を行えば、社会の交わりの中に復帰することが許されていた(レビ記14:19-20)。
-ルカ17:14「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」
・病気を癒された十人のうち、他の九人は神殿への旅を続けた。いやされたことを早く祭司に証明してもらいたい、そうでなければ世間では通用しないと思ったのだろう。しかしサマリア人は体の清めを祭司に見て貰う前にやるべきことがあると思った。このサマリア人はイエスの業の背後に神を見た。だから彼は「大声で神を賛美しながら」戻ってきた。
-ルカ17:15-16「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」。
・十人のらい病者がイエスにいやされ、そのうち一人だけがイエスに感謝するため戻って来た。イエスは彼に「あなたの信仰があなたを救った」と語り、彼を祝福した。十人のらい病者は「病を清くされた」が、「魂が救われてはいない」。このサマリア人はらい病をイエスによっていやされ、イエスの元へ戻り感謝することで、救われた。感謝が彼の信仰となり、信仰が彼を救った。
−ルカ17:17-19「そこでイエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったのか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。』それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」
・サマリア人は劣等民族としてユダヤ人から差別されていた。お互いが病の苦しみの中にある時はユダヤ人もサマリア人もなく、絆が固く保たれていた。しかし一度病がいやされると、ユダヤ人はユダヤ人、サマリア人はサマリア人に分離してしまう。サマリア人は一人にされたが、彼の顔は輝いている。神に出会ったからだ。イエスは彼に言われた「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。ルカは「いやしと救い」を明確に区別する。病気が治されるいやしと、神の前に罪を赦される救いが、区別されている意味を考える必要がある。イエスはサマリア人に言われた「立ち上がって行きなさい」。サマリア人は神の業に参加するよう召命を受けた。彼は祝福を受ける者から祝福を運ぶ者に変えられていった。
・榎本保郎牧師はこの物語に関して次のように語る「私たちにとって大事なことはイエスから何かをしてもらうことより、イエスが共にいて下さることを知ることだ。例え死の陰の谷から救いだされても、また落ちて行くのが人生だ。死の陰の谷から救われる(病気がいやされる)ことが究極の喜びではない。それよりも死の陰の谷を渡ってもそのことを恐れない(信仰が与えられる)ことのほうが大切ではないか」(榎本保郎「新約聖書1日1章」)。