1.イエスを殺す計略
・ルカ福音書では22章から受難物語が始まる。祭司長や律法学者たちはイエスを殺す手段を考えていたが、民衆を恐れて手出しできなかった。
―ルカ22:1-2「さて、過越祭が近づいていた。祭司長たちや、律法学者たちは、イエスを殺すのはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。」
・イエスの十二弟子の一人、イスカリオテのユダの心にサタンが入り込み、イエスへの不信を心に植えつけ、掻き立て、イエスを祭司長らに売り渡す行動に走らせた。
−ルカ22:3-4「十二人の中の一人でイスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。」
・ユダから、イエス引き渡し相談を受けた祭司長らは喜び、ユダに褒賞金を与え、機会を狙い始めた。
―ルカ22:5「彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいない時にイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」
・ユダが何故裏切ったかについては諸説がある。マタイはユダがお金のためにイエスを売ったと記す。
-マタイ26:14-16「その時、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。その時から、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」
・ユダの生涯を見た時、彼がはした金でイエスを裏切ったとは考えにくい。彼はイエスならば世を救う力をお持ちだとの希望を持って弟子団に入り、他の弟子たちがイエスを見捨てた後も信従して来た。ユダはメシアとして何も行動を起こさないイエスに失望したのであろうと思われる。ユダについてのイエスの言動は不思議である。晩餐の席上、イエスは、ユダの裏切りを予見し、「私を裏切る者が、私と一緒に食卓に手を置いている」といわれた。しかし、イエスはユダの裏切りを阻止されようとはされなかった。カ−ル・バルトは解釈している「ユダはイエスを十字架に架ける重要な役割を担わされ、その役割を果たすべき人物として神に遣わされたのである。」
2.過越の食事を準備させる
・過越祭の初めに除酵祭があり、小羊を屠り、酵母を入れぬパンを食べた。イエスはペトロとヨハネを過越の食事の準備をさせるため使いに出した。
―ルカ22:7-8「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。イエスはペトロとヨハネを使いに出そうとして、『行って過越の食事ができるように準備しなさい』と言われた。」
・イエスはあらかじめ指定してあった場所を、二人に教えられた。おそらく事前にイエスがエルサレムの知人に頼んで場所を用意されていたのであろう。準備は滞りなくできた。
―ルカ22:9-13「イエスは言われた。『都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にこう言いなさい。「先生が、弟子たちと一緒に食事をする部屋はどこかとあなたに言っています。すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。』二人がそこに行ってみると、イエスが言われた通りだったので、過越の食事の準備をした。」
3.主の晩餐
・最後の晩餐でイエスは死を覚悟しておられる。木曜日にイエスは弟子たちと食事の席につかれ、言われた「これがあなたたちと行う最後の食事だ」と。イエスは死が間近に迫っていること、これが弟子たちと取る最後の食事になるであろうと弟子たちに語られた。「私は切に願っていた」、この言葉の中にイエスの弟子たちへの哀惜の思いがにじみ出ている。
-ルカ22:14-16「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた『苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、私は決してこの過越の食事をとることはない』」。
・イエスは、杯をとり神に感謝して言われた「神の国が来るまで、再び葡萄者を飲むことはないだろう」。
―ルカ22:17-18「イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、私は今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』」
・イエスは、感謝の祈りを捧げてパンを裂き、弟子たちに与え、「これはあなたたちの罪を贖うため、裂かれる私の体である」と言われた。また杯を取り、「これはあなたがたの罪を贖う私の血による新しい契約ある」と言われた。これらが後の「主の晩餐式」の原形となった。
―ルカ22:19-20「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私を記念してこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である』」
・イエスと弟子たちの最後の食事が発展し、現代の教会に受け継がれているのが「主の晩餐式」である。パウロが伝えた伝承が聖書の中では最初のものである。
―?コリント11:23-26「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、『これはあなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に私の記念としてこのように行いなさい。』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。」
・主の晩餐の後、イエスは「私を裏切る者が、この席にいる」と言われたので、座は騒然となった。
―ルカ22:21-23「『しかし、見よ、私を裏切る者が、私と一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められた通り去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。』そこで、使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしょうとしているのかと互いに議論をし始めた。」
4.だれが一番偉いのか
・「私を裏切る者が、この席にいる」という言葉は、弟子たちに波紋を与えた。「それは誰だ」、弟子たちの犯人探しが始まる。「まさか私ではないですよね」、「もしかしたらあなたか」、弟子たちは自分を振り返るのではなく、仲間たちを疑い始めている。だから議論は次第に、「誰が食卓の上席を占めるのか」、「誰が一番偉いのか」という議論に変わっていく。この世の基準では、食卓での席順はその重要性を示している。
-ルカ22:24「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうかという議論も起こった。」
・ここで明らかになることは、弟子たちの上昇志向だ。彼らはイエスがエルサレムで王になられ、その時は自分たちも特権的な地位につきたいと願って、イエスに従って来た。彼らはイエスの苦しみを理解することなく、自分たちのことだけを考えている。そのような弟子たちにイエスは語られる。
-ルカ22:25-26「そこで、イエスは言われた。『異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。』」
・イエスが示されたように、教会のリーダーシップとはサーバント・リーダーシップ、仕えるリーダーシップである。だから教会の執事は仕える者(ディアコノス)と呼ばれる。教会はイエスが言われたように「食事の席に着く」のではなく、「給仕する者」を目指していく。
-ルカ22:27「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」
・そしてイエスは自分が去って行かれる後のことを弟子たちに委ねられる。
-ルカ22:28-29「あなたがたは、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた。だから、私の父が私に支配権を委ねて下さったように、私もあなたがたにそれを委ねる。」
・ルカはここで二つの事柄を私たちに伝えると福音書の注解者クラドックは私たちに語る。「第一はキリストへの裏切りは主の晩餐に列席している者たちの間で起こったのであり、また再び起こりうるという使信である。第二に主の食卓の場面に偉さに関する議論を置いたことによって、十二人の歴史における醜い瞬間を、食卓を共にしている人々に対する深刻で現在でも意味のある教訓に変えている」。私たちが教会内で争いを抱える時、この主の晩餐式での争いが再現されている。