1.人の子が来る
・ルカ21章は戦争と飢餓という歴史の中で書かれている。66年にローマからの解放を求めるユダヤ戦争が始まり、ユダヤはローマ軍と戦った。ユダヤの人々は、神が自分たちを救うために介入されると狂信的に期待し、神殿に立てこもり、最後までローマ軍に抵抗し、そのために100万人以上が殺された。ルカは紀元70年のエルサレム滅亡を目撃している。
−ルカ21:20-24「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである・・・この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる」。
・ルカはエルサレム滅亡を語った後、「人の子が来る」というイエスの預言を紹介する。
―ルカ21:25-26「『それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界になにが起こるかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。』」
・終末は悲しみの時ではなく、希望の時である。福音書記者は「人の子」預言の中にイエス再臨の希望を込めた。国の滅亡(紀元70年)とその後の混乱の中にある人々に、ルカは「イエスがまた来られる。その時には悪しき者が裁かれ、信徒は救われる」と励ます。
―ルカ21:27-28「『その時、大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。』」
・この「人の子」預言はダニエル書からの引用である。ダニエルの時代、ユダはシリヤの支配下にあり、シリヤ王アンティオコスの迫害に苦しめられていた。その中で、ダニエルは迫害者がやがて裁かれ、人の子が来て神の国が始まるという幻を見た。
-ダニエル書7:13-14「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」。
・ストア派の哲学者たちは、歴史は、果てしなく回り続ける輪のようなものだと考えた。彼等の主張によれば、世界は三千年を区切りに一巡し、歴史は繰り返される。歴史は終末を目指してまっすぐ進んでいるのではなく、回り続ける。当然そこには何の進歩もなく、同じ事が繰り返される。聖書の歴史観はそのようなものではなく、信仰には明確な到達点があり、終末に主イエス・キリストが再臨され、神の国が実現すると希望する。
-使徒信条「我は全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、三日目によみがえり、天の父のなる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死せる者とを審きたまわん・・・ア−メン。」
2.「いちじくの木」のたとえ
・イエスはいつも生活に身近なものをたとえに用いて教えられた。「いちじくのたとえ」もその一つだった。いちじくはイスラエル中に多く存在する果樹で、イスラエルの象徴でもあった。人はいちじくの変化から季節の変化を知ることができた。いちじくの葉が茂れば夏は近く、実が熟せば秋は近かった。そのように、「天界の変化を見たら、世の終わりが来て、神の国が近いことを悟りなさい」とイエスは教えられた。
―ルカ21:29-31「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、すでに夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、それらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていることを悟りなさい。』」
・すべてのものには、初めがあれば終わりがある。人の世にも初めがあれば、終わりがあるが、終わりが突然来ることはない。終わる前には終わりの徴は必ずあり、また徴があってもすぐ世の終わりは来ない。何よりも、「天地のすべてが滅びても、私の言葉は、決して滅びることはない」とイエスは語られる。
―ルカ21:32-33「『はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。』」
・これまで人類は度々滅亡の危機に瀕して来たし、世の終わりとしか思えないような戦争の出来事も経験してきた。それはこれからもあるだろう。しかし神の救いはその中で到来し、人はその希望の中で生きる。
-イザヤ40:7-8「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」
3.目を覚ましていなさい
・深酒や放縦な生活は、人の感性を鈍らせ、世の変化に順応できなくなる。だから、普段から身を慎み、目を覚ましていなければならない。「終りの時は地上に住むすべての人に及ぶ。滅びの時が近いのに気づいたら、逃れることが出来るように、いつも目を覚ましていなさい」とイエスは言われる。
―ルカ21:34-36「『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないとその日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも、目を覚まして祈りなさい。』」
・イエスは目を覚ましていなければならないと現代の私達にも警告される。覚ますべき目は心の目であって、肉の目ではない。心の目を覚まさずに、肉の目だけで現実を見ても、その底を流れる時の変化までは見えない。マタイ福音書のイエスは主人の帰りを待つ僕に譬えて、待つ者の心のありかたを教えられる。
−マタイ24:36-39「『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱船に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり、嫁いだりしていた。そして洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった・・・だから目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。』」
・世の終わりと再臨を人々に語り終えられたイエスは、昼間は神殿の境内で民衆に教えられ、夜はオリ−ブ山に戻り休息された。民衆はイエスの教えを聞こうと、朝早くから神殿の境内に集まった。
―ルカ21:37-38「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリ−ブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集って来た。」
・ヨハネ福音書8章に姦淫の女の物語があるが、学者たちは、この物語は元来ルカ福音書21章38節に続いていたのではないかと想像する。
-ヨハネ7:53-8:5〔人々はおのおの家へ帰って行った。イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』〕
・ヨハネ7:53-8:11は〔 〕の中に書かれている。このしるしは「後代の加筆と見られているが、年代的に古く重要である箇所を示す」。ヨハネ福音書の古い写本には記載がなく、後代の加筆の可能性が高く、資料的な問題があるという記号だ。伝承そのものは古く、イエスに由来することは争いがない。では何故そのような入れ替えが行われたのだろうか。それは罪を犯したにもかかわらず、その罪を無条件に赦すイエスの態度に、ルカの教会の人々が戸惑ったからだと思える。当時の人々は考えた。「姦淫のような重い罪を犯した者を無条件で赦せば、教会の秩序は保てない。いくらイエスの言葉だからと言って受け入れがたいではないか」。その結果、この記事がルカ福音書から削除され、後になってヨハネ福音書の一部として、承認されたとされる。内村鑑三はこの物語について「この一編のごとき、これを全福音書の縮写として見ることが出来る。もしこの編だけが残っていたとしても、イエスの感化は永久に消えない」と語る。聖書はまさに人間を超えた神の言葉である。