1.神の国が来る
・ファリサイ人が、「神の国はいつ来るのか」とイエスに尋ねた。イエスは「神の国は今あなたがたの中にあるではないか」と言われた。「私が来た、それこそが神の国(神の支配)の始まりではないか」と。
-ルカ17:20-21「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。ここにある、あそこにあると言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』」。
・ルカ17章にはイエスの終末預言が述べられているが、当時の人々は終末、神の国を待望していた。イスラエルはローマ帝国の植民地であり、その前も異邦人の支配下にあった。これは「自分たちこそ神の選びの民」と信じるイスラエル人にとっては耐えられない現実だった。彼らは神がこれら異邦人を滅ぼすために、メシア(救世主)を遣わし、いつの日か自由になる日が来ることを待望した。その日こそ、「終わりの日、自分たちが解放される日」である。ファリサイ人もまた神の国を待望していた。だから彼らはイエスに尋ねる「神の国はいつ来るのか」。
・ファリサイ人は納得しない。ファリサイ人はイエスがメシアであるとは信じていない。そこでイエスは、ファリサイ人との対話を止め、弟子たちに神の国の奥義を語られる。
-ルカ17:22-25「それから、イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。見よ、あそこだ、見よ、ここだと人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。』」
・ユダヤ教の神学者マルテイン・ブーバーは「イエスはメシアではなかった」と批判する。イエスをメシア(キリスト)と信じるか、信じないかで、人生は分かれていく。
-マルテイン・ブーバー「イエスにおいてメシアは来ているとの主張は真実でありえない。さもなくば、世界はこのように全く贖われていないように見えるはずはない。それゆえ、なお来るべきメシアというユダヤ教の期待はより信頼に値する」。
2.ノアとロトに学びなさい
・イエスは、「終末は必ず来る、あなたがたは目を覚まして待ち望め」と言われた。「ノアとロトに起こった事を思い起こせ」とイエスは話を続けられる。ノアは「洪水が来るから箱舟を造りなさい」という主の言葉を受けて箱舟の建造を始めるが、人々はノアを嘲笑し、食べたり飲んだり娶ったりして、現在の楽しみを追い求めた。その結果洪水でこれらの人々は滅ぼされたではないかとイエスは言われる。
-ルカ17:26-27「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れる時にも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。」
・またロトの時代の事を思い起こせとイエスは警告される。主はソドムを滅ぼすことを決意され、ソドムに住むロトに「山に逃げよ」と言われた。ロトは親族たちに「共に逃げよう」と呼びかけるが、誰も本気にせず、その結果、ソドムの町は焼かれ、住民は死に絶えた。終末の準備をしない者は滅びるとイエスは警告されている。
―ルカ17:28-29「ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて一人残らず滅ぼしてしまった」。
・人の子が現れる時は、ノアやロトの時と同じように、審判の時である。その日屋上に居る者は部屋に戻ってはならない。畑に居る者は家に帰ってはならない。その時は、審かれて神の国へ入れられるか、世に残されて滅ぼされるか、厳しい裁きの時である。その時は財物であれ世の地位であれ、何の役にも立たない。ロトの妻のように後を振り返ってはならないのだ。
−ルカ17:30-31「『人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。』」
・矢内原忠雄は「再臨と審判」について述べる。「キリストが王として再臨し、最後の審判をなし給うのは、突如として、しかも一瞬の中に行われる・・・その時、我らが蓄えた財産や器物が何の益になろうか、いかに自分が大切に愛用した器物であっても、それを携えて神の国へ入るのではなく、我らは一切のこの世の所有物から即時に離れて、神の国に移されねばならない・・・その場に及んで地上の所有物や、親戚、肉体の生命に未錬と執着を持つ者は、ロトの妻のように滅ぼされる。これに反し地上の一切を捨てる者は、神の国に取り上げられて、永遠の生命を与えられる。『およそ己が生命を全うせんとする者はこれを失い、失う者はこれを保つべし』(ルカ17:33)とイエスが言い給うはこのことなり」(矢内原忠雄「聖書講義?、ルカ伝」、岩波書店)。
・初代教会の人々はイエスの復活を見て、この人こそメシアだと信じた。そのメシアは終末の時に来ると旧約聖書は預言している。「メシアが来られた、終末が始まった。自分たちの生きている間に、世の終わりが来る」と信じた彼らは、土地や建物を売って共同体に献げ、共に住み、祈り、終末を待った。その緊張感が教会を立てあげて行った。現代の私たちは、終末や再臨の緊張感はない。結果的に終末は来なかったし、またいつ来るかわからないからだ。
3.自分の命を失う者は生かされる
・自分の命を捨てる者は命を得、自分の命を惜しむ者は命を失う。命は人間の支配下にはないのである。
―ルカ17:33-36「『自分の命を生かそうと務める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。』」
・弟子たちが「審判の日は何時ですか」と尋ねると、イエスは「死体のある所にははげ鷹も集まる。」と答えられた。はげ鷹は動物の死肉を食う大型の鳥だ。はげ鷹が、死体を狙い、天空高く群れて飛び回れば、遠くから誰の目にもよく見える。同じように、審判の時が来れば誰にでも分かるとイエスは答えられた。
−ルカ17:37「そこで弟子たちが、『主よ、それはどこで起こるのですか』と言った。イエスは言われた。『死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。』」
・イギリスの詩人、牧師のジョン・ダンは「瞑想録」を書いた。ヘミングウェーはその中から「誰がために鐘は鳴る」を取り上げて、自分の小説の題名とした(1939年)。1936-39年のスペイン内乱で多くの命が失われた。「戦場で鳴り響く鐘の音は、戦火に倒れて死んだ者のためにのみ鳴るにとどまらない、それを聞く者すべてのために鳴るのだ」という意味を込めた。
―ジョン・ダン瞑想録第17「教会が人を葬る時、私はその行いに関心を抱く。万人は一人の著者によって書かれた一冊の本の如きものである。一人の人が死ぬ時、一つの章が本から千切りとられるわけではない。そうではなく、より良い言葉へと翻訳しなおされるのだ。すべての章がそうである。神は何人かの翻訳者をもちいてそれを行う。ある部分は年によって、ある部分は病によって、ある部分は戦争によって、ある部分は正義によって翻訳されるだろう。だが神の手はすべての翻訳に作用している。神の手はちりぢりになったページを束ね直して図書館に収める。そこですべての本は万人の目に触れることになる。『誰がために鐘は鳴る』のか。ミサの席に鐘が鳴るのは、すべての人々のためである。鐘は我々すべてに呼びかける。そしていま病によって死のほうへと近づきつつある私のためにも鳴る。」
・私たちは今日生きている。明日も生きるだろう。恐らくは明後日も。しかし、いつかは死ぬ。私たちは死に向かって毎日を歩んでいる。だから聖書は語る「目を覚ましていなさい、死に向かって歩んでいるのに、今のような生き方を続けて良いのか」と。私たちにとって終末を覚えることは、私たち自身の死を覚えることだ。死んだらどうなるのか、誰にもわからないし、怖い。多くの人は将来の死を考えないようにして、現在を楽しもうとするが、それは何の解決にもならない。死を考えずに生きることは、現実逃避だ。聖書は「目を覚まして生きる」ことを私たちに求める。私たちが癌に冒され1年後に死ぬことが解っていれば、私たちの生き方は変る。もはや大きな家も豪華な車は要らない、会社で偉くなることも事業の成功も喜びではなくなる、暇つぶし的な時間の過ごし方はしない。私たちがやがて死ぬことを自覚した時、私たちは本当に大事なものだけを求める人生を生きるようになる。
-ルカ21:34-36「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」