1.サウロの回心
・サウロ、後のパウロは熱心なファリサイ派であり、モーセ律法を軽視するキリスト教会を迫害していた。
-使徒8:1-3「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った・・・一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」。
・そのサウロがダマスコ途上で復活のイエスとの劇的な出会いを経験したと使徒言行録9章は記録する。
―使徒9:1−4「サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近付いた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。」
・使徒言行録はサウロの回心を3回にわたって記述する(22:4-16、26:9-18)。共通しているのは「天から光があった」、「地に倒された」、「声が聞こえた」という記述だ。何かの非日常の出来事がそこにあった。
―使徒9:5−9「『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、『私はあなたが迫害しているイエスである。起きて町へ入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは起きあがって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。」
・サウロの導き手にアナニアが選ばれた。アナニアにとってまさに青天の霹靂だった。
―使徒9:10−12「ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った。『立って、「直線通り」と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元通り目が見えるようにしてくれるのを幻で見たのだ。』」
・アナニアは迫害者サウロを助けることに躊躇するが、主の命令なのでいやいやながら従う。
―使徒9:13−16「アナニアは答えた。『主よ、私はその人がエルサレムで、あなたの聖なる者に対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも御名を呼び求める人をすべて捕えるため、祭司長たちから権限を受けています。』すると、主は言われた。『行け、あの者は、異邦人や王たち、また、イスラエルの子たちに私の名を伝えるために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまねばならないかを、私が彼に示そう。』」
・主の前に降伏し、再び目が開いた時のサウロは、もう元の迫害者サウロではなかった。
―使徒9:17−19a「そこで、アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上の手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。』するとたちまち目から「うろこのようなもの」が落ち、サウロは元通り見えるようになった。そこで、身を起こしてバプテスマ(洗礼)を受け、食事をして元気を取り戻した。」
・パウロはこの出来事についてほとんど語らない。唯一ガラテヤ書の中で彼はこの時の経験について語る。
-ガラテヤ1:13-17「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた時、私は、すぐ血肉に相談するようなことはせず、私はまた、エルサレムに上って、私より先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」
2.その後のサウロ
・使徒言行録はサウロが回心後すぐにダマスコで伝道を開始し、やがてエルサレム教会に行ったと記述するが、ガラテヤ書は、パウロは回心後3年間アラビアの荒野に引きこもり、それからエルサレム教会に行ったという。
―使徒9:19b−20「サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、『この人こそ神の子であると』とイエスのことを宣べ伝えた」。
・サウロはダマスコでかつての味方のユダヤ人から命を狙われる羽目になってしまい、そこを逃れる。
―使徒9:23−25「かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、籠に乗せて街の城壁伝いに吊り降ろした。」
・その後サウロはエルサレムに向かうが、エルサレム教会の人々は彼の前歴から彼の回心を信用しなかった。サウロのために執り成しをしたのは、同じ異郷出身のバルナバだった。
―使徒9:26−28「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかし、バルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主と出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。」
・しかしエルサレムにも危険が迫り、サウロはカイザリアへ逃れる。
―使徒9:29−30「また、ギリシャ語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイザリアに下り、そこからタルソスへ出発させた」。
・パウロのような回心を伝道者はどこかの時点で経験する。
-村上伸「代々木上原教会、2010年8月22日説教」から「洗礼を受けた翌年、私は東京の神学校で勉強して牧師になりたいと秘かに決心した。だが、家の経済状態を考えると、そんなことはとても無理である。この決心を中々言い出せずに悩んでいた。ところがある晩、教会での祈祷会から一人で帰宅する途中、突然、天から『死ねばいいではないか』という声が聞こえて来たのである。本当に聞こえたのかどうかは分からない。そのような気がしただけかもしれない。しかし、突然聞こえて来たこの声は、私の心を揺り動かした。パウロのように地に倒れたりはしなかったが、私は『我を忘れた』ようになった。あるいは、急な『めまい』に襲われた人のように暫く立ち尽くしていた。そして、これは『死ぬ気になって進めば、道は開ける』という神の声に違いないと信じた。私は直ちに教会に引き返し、牧師に決心を打ち明けた。その時、今日までの道が決まったのである」。
・パウロはかつて自分の信じる正義を人に押し付ける傲慢な人だった。その彼が復活のイエスに出会った後に告白する「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。パウロは自らの熱心を人に押し付ける者から、他者(すなわちキリスト)のために苦しむ者に変えられた。同じ経験をした私たちも唱和する「私たちの古い自分はキリストと共に十字架につけられた」(ローマ6:6)、だから私たちは「キリストとともに生きる」(同6:8)。
3.ペトロの伝道活動
・ペテロは巡回伝道者として、各地を回っていた。彼はリダでは中風で寝たきりのアイネアを癒し、ヤッファでは死んだドルカス(タビタ)を復活させた。ペテロにはパウロのような華々しさは無いが、誠実さがあった。
−使徒言行録9:32-42「ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいる・・・中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。ペトロが『アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい』と言うと、アイネアはすぐ起き上がった・・・(ヤッファでは) ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、『タビタ、起きなさい』と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた」。
・使徒言行録は初代教会が言葉と力ある業とによって教勢を伸ばしたことを伝える。力ある業とは過去においては癒しであった。今日においても同じだ。自己の利害を超えた愛の行為が人を信仰に、そして救いに導く。ブルームハルトは語る「ある者は癒やされた、ある者は生きる勇気を得た。病気も癒やしも神のみ心のままに、病の床も恵みになる時にすでに癒やされている。信仰が生き死を越えたところで人に力を与える」。
−使徒9:35「リダとシャロンに住む人は皆アイネアを見て、主に立ち帰った」。
−使徒9:41-42「 ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた」。