1.言が肉となった
・福音書の序詞はそれぞれ特徴がある。マルコ福音書はイエスの宣教開始から始め、マタイ福音書は歴史をアブラハムまで遡り、ルカ福音書はさらに始祖アダムまで遡っている。四つの福音書の中で、ヨハネ福音書は創造前まで遡り、神の言(ロゴス)から筆を起こしている。
−ヨハネ1:1−3「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった、この言は初め神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」
・天地創造の始めは無の中に神の言だけが存在した(創世記1:1-3)。言は神の意志であり、言は神と共にあった。万物はこの言、すなわち神の意志により創造された。言とはギリシャ語ロゴスである。古代ギリシャの哲学では、ロゴスは理性であり、宇宙は理性で統一されていると見做した。ヨハネはこの思想の影響を受けながらも、ギリシャ哲学から離れ、受肉以前に先在したキリストが神であったと理解する。
−ヨハネ1:4「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
・ヨハネのロゴス讃歌の背景にはヨハネ教会がユダヤ教から迫害されていた事実があると言われる。何故、世の人々はキリスト・イエスを殺したのみならず、キリストに従う私たちをも迫害するのか。何故、「イエスこそキリスト(救い主)である」と信仰告白することによって、異端とされ、殺されねばならないのか。「暗闇は光を理解しなかった」、この言葉の中に厳しい現実の中にあるヨハネ教会の叫びがある。
2.世は言を受け入れなかった
・イエスは自分の民ユダヤ人のところに来たが、ユダヤ人はイエスを受け入れなかった。ユダヤ人は神の民として選ばれ、彼らこそイエスを受け入れるに相応しい民だったのに受け入れようとしなかった。しかし、少数ではあるがイエスを受け入れたユダヤ人もいた。「イエスを信じ受け入れた者には、神の子となる資格が与えられた」とヨハネは記す。
−ヨハネ1:10−13「言は世にあった。世は言によって成ったが世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
・神の言を具現したイエスは人の世に住んだ(受肉)。世の人々はイエスの栄光の姿を見た。イエスは貧しい人々と共に歩み、彼らの病いを癒し、疎外されていた人々を受け入れ、慰めた。
−ヨハネ1:14−15「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、真理と光に満ちていた。ヨハネはこの方について証しをし、声を張り上げて言った。『「私の後から来られる方は、私より優れている。私より先におられたからである」と私が言ったのは、この方のことである。』」
・イエスは比類ない愛と叡智に満ちていた。律法はモ−セを通して与えられたが、恵みはイエス・キリストを通して与えられた。
−ヨハネ1:16−18「私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモ−セを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」
・神の言葉は、それが自分に与えられた言葉であると受け止めた時に出来事になっていく。マザー・テレサは1910年アルバニアに生まれた。彼女の父は民族紛争の中で殺された。何故、人と人が殺しあうのか、彼女は悩みの中で、聖フランシスの祈りと出会い、修道女になる決心をした。修道女となったマザーはインドに行くが、そこで見たのは、ヒンズー教徒とイスラム教徒が対立し、殺し合う光景だった。そこにも闇が広がっていた。彼女は修道院を出て、道端で死んでいく人々を救済する活動を始める。マザーはそこにキリストの体を見た。言は受入れた人の人格を変え、闇の中に光をもたらす。
-粕谷甲一・第二バチカン公会議と私達の歩む道「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで、体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、 thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」。
3.洗礼者ヨハネの証し
・洗礼者ヨハネは紀元28年頃に預言者運動を始めた。彼は終末の接近を告げ、悔い改めを求めた。イエスはヨハネの弟子となって、その公生涯を始められた。ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネはイエスを世に知らせるために現れたと理解する。
−ヨハネ1:6−9「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、またすべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
・ヨハネは祭司の子として生まれ、青年時代を荒野のクムランで修行を続けた。そして終末の接近を信じ、悔い改めのバプテスマ運動を開始した。多くの人が集まり、評判が高まり、ヨハネはメシアではないかとの噂が広まり、最高法院(サンへドリン)は使いを派遣して、ヨハネに「あなたは誰か」と尋ねさせた。
―ヨハネ1:19−21「ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたはどなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず、『私はメシアではない』と言い表した。彼らがまた、『では何ですか。あなたはエリアですか』と尋ねると、ヨハネは、『違う』と言った。更に『あなたはあの預言者なのですか』と尋ねると、『そうではない』と答えた。」
・使いは、それでは「あなたはいったい誰なのか」と尋ねた。ヨハネは答えた。「私は主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声であると。」
―ヨハネ1:22−24「そこで、彼らは言った。『それではいったい、だれなのです。私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。』ヨハネは預言者イザヤの言葉を用いて言った。『私は荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよと』。遣わされた人々はファリサイ派に属していた。」
・ヨハネの答えを聞いた人々は問い質した。「あなたはメシアでもなくエリアでもなく、預言者でもないのに洗礼を授けるのか」。ヨハネはその時、群衆に混じって立つイエスを見つけ、「自分の授ける水の洗礼はあくまで罪の赦しにすぎない。私の後から来る方が聖霊の洗礼を授けるであろう」と答えた。
−ヨハネ1:25−28「彼らがヨハネに尋ねて『あなたはメシアでも、エリアでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか』と言うと、ヨハネは答えた『私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなた方の知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない。これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向う側ベタニアでの出来事であった。』
・洗礼者ヨハネは「私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と言った(マルコ1:8)。私たちは自分たちの罪を認め、先ず水に入る。その後の信仰の歩みの中で、旧い自分が火によって焼き尽くされ、霊に満たされて新しくされる時を迎える。人は水の洗礼を受けてもその本質はなかなか変わり得ない。水の洗礼を受けるだけでは人はキリスト者にはなりえない。だから霊の洗礼(あるいは心の割礼)を待ち望む。
-ローマ2:29「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊"によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」。