1.律法について
・イエスの時代のユダヤ人の律法の第一は十戒、第二はモ−セ五書、第三は旧約聖書全体、第四は口伝律法であった。この口伝律法をイエスは問題にした。それはまさに律法学者の作った律法だったからである。イエスはこの律法学者の律法を激しく、厳しく糾弾されたのであった。それは彼らが律法の細かな解釈にこだわり、守るべき中心を見失い、そのうえ、律法の実践をも怠っていたからである。
−マタイ5:17−19「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だからこれら最も小さな掟の一つでも破り、そうするように人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」
・イエスは律法学者やファリサイ人らを、たびたび批判されたが、そのきっかけとなったのは、彼らの律法の解釈と実践であった。彼らを批判されることから、あたかもイエスが律法を否定しているかのように見えるが、そうではなく、逆にイエスの方こそ律法を順守されたのである。そして、イエスは逆に彼らに律法を教えられたのである。イエスは律法を廃止するのではなく、完成するために来られたからである。
・イエスは「律法の文字から一点一画も消え去ることはない」、と言われている。その一点一画とは、もちろん日本語の漢字やかなの点や画ではない。ヘブル語の点と画なのである、ヘブル語の点はアポストロフに似たヨ−ドと呼ばれる点で、画はヘブル文字のひげ飾りのような線のことである。イエスはヘブル文字の小さな部分をたとえに用い、律法守ることの大切さを強調されたのである。しかし、そんな律法に対するイエスの敬虔で真摯な態度も、ファリサイ派の人々や律法学者に通じることなかったのである。イエスと彼らの間の溝は深まるばかりであった。イエスとファリサイ派の人々との摩擦は次ぎのように起こった。
−ルカ6:1−5「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べた。ファリサイ派のある人々が、『なぜ、安息日にしてはならないことを、あなたたちはするのか』と言った。イエスはお答えになった。『ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか。読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかにはだれも食べてはならないパンを取って食べ、供の者たちにも与えたではないか。』そして彼らに言われた。『人の子は安息日の主である。』」
・申命記23:26に「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」とあり、これは貧乏な者がする生存のための、やむを得ない行為を保護する律法であった。イエスの弟子たちの行為は十分法に適っていたはずであったが。彼らはイエスの弟子たちの行為を、刈り入れであると教義に解釈し、安息日にしてはならない労働をしていると非難したのである。しかし、イエスは動じず、ダビデの故事をあげ、空腹のときに麦畑で食べることは人の子には許されていると反論されたのである。次ぎはイエスの弟子たちの手洗いをきっかけで起こった事件であった。
−マルコ7:1−9「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。―ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人々の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事せず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―そこで、ファリサイ派の人々と律法学者が尋ねた。『なぜ、あなたの弟子たちは昔の人々の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。』イエスは言われた。『イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。」あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』さらにイエスは言われた。『あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の教えをないがしろにしたものである。』」
2.律法から福音へ
・ファリサイ派の人々の多くは都エルサレムに住んでいたが、イエスの評判があまりにも高いので、調査のためにガリラヤに人を派遣した、その彼らの目の前で、イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしたのである。彼らはイエスの弟子が律法を守っていないことを目前にし、色めきたったのである。マルコは彼らファリサイ派の人々を始めユダヤ人にとって、手洗いがいかに大切であるかを4節で解説している。ただし、問題になったのは、一般にいう手洗いではない。記録によれば、手洗いの水は清められた器に入れられた水で、一回に使う水はごく少量で小皿一杯くらいであった。手を洗う者は、まず指先を上にして、側にいる人に皿の水を注いでもらい、その水を手首から落し、汚れた水を手に戻さないようにした。そのうえで一方の手でこぶしを作り、洗った方の手をこすり、これと同じことをもう片方の手で繰り返す。彼らはその潔めの儀式の形式にこだわっていたのである。同じようなことを日本人もしている。葬儀に出席した人が家に帰ったとき、ひとつまみほどの塩で潔めの儀式をする。その他様々の潔めの慣習があるが、その慣習の経緯をほとんど考えようともしない。ただ繰り返すだけである。口伝律法を意味も考えず繰り返すのも同じである。
・十戒やモ−セ五書、旧約聖書を読んだファリサイ人は、その中の明示されていない教えについて、律法は神聖で完璧であるのだから、すべての法はその中で明示されているはずで、明示がないのは、暗示されているはずだと考えた。その結果。彼らの中から律法を専門に研究する者が現れ、職業とする者が律法学者となり、律法の原則から数え切れないほどの細則を作り、それが無意味な口伝律法となったのである。
−マタイ5:20「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたはけっして天の国に入ることはできない。」
・ファリサイ派の人々に義にまさるとは。義は無償の愛であるとイエスは教えている。ファリサイ派や律法学者にまさる義は神の義であり、神の義はまさにここに示されている無償の愛である。この広大な愛をさしおいて、ほかに神の義があるだろうか。
−ルカ6:27−36「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には誰にでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。自分を愛してくれる人を愛したところで、なたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあるだろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなた方の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」