1.すべての民族を裁く
・マタイは「人の子イエスが天使たちを従え栄光の座に着いた時、審判を受けるため、全世界の民族が栄光の座の前に集められる」と記す。審判は選別から始まる。マタイ13:49にも選別の記事がある(「世の終わりにはそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中から悪い者どもをより分ける」)。25章では人が羊と山羊に譬えられ、羊飼いが羊を右、山羊を左に分ける。
−マタイ25:31−33「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に山羊を左に置く。」
・王はイエスである。イエスは善き羊に譬えられた正しい人たちを祝福し、天地創造の始めから彼らのため用意されている、神の国を受け継ぐよう命じる。彼らの善行が神の国を受け継ぐにふさわしいと王が認めたからである。彼らの善行とは、弱者への援助と、信仰のゆえに迫害され牢に入れられている人たちへの慰問である。この譬えは初代教会が置かれた苦難と迫害の時代を反映している。迫害されている同胞キリスト者を慰めることこそ、主が喜ばれる行為だとマタイは語る。
−マタイ25:34−36「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ。』」
・王に誉められた人たちには善行をした意識すらない。彼らは「いつ私たちがそのような善行をしたでしょうか」と王に質問する。彼らには困っている人々を助けるのは当然だという善意しかない、だから誉められようなどとは思わない。彼らはまさに「右の手のしたことを左の手に知らせるな」(マタイ6:3)というイエスの教えを実行している。彼らの謙虚な答えを聞いた王は「私の兄弟である最も小さな者を助けたことは、王である私を助けたのと同じである」と彼らを祝福する。
―マタイ25:37−40「すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えているのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。』」
・王の左側に分けられ、山羊に譬えられた人々の審判が始まる。王は最初から「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と厳しい言葉を彼らに突きつける。永遠の火は焼き尽す滅びの火である。しかし、彼らは悪を行った意識はなく、王が飢え、渇き、宿がなく、着る物がなく、病気のとき、牢獄にいた時に世話をしたと言い張る。していない善行をしたと言い張ることは偽善である。王なるイエスは彼らの偽善を追及し、弱く困苦の中にいる者らを助けなかったのは私を助けなかったのと同じであると彼らを叱る。最後に王の判決が下り、悪しき山羊には永遠の罰が与えられ、善き羊には永遠の命を与えられる。
−マタイ25:41−46「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせず、のどが渇いた時に飲ませず、旅をしていた時に宿を貸さず、裸の時に着せず、病気の時、牢にいた時に、訪ねてくれなかったからだ。』すると彼らも答える。『主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話しなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
2.最後の審判の記事から学ぶもの
・25章後半の教えによれば、神の審判は人が神の教えにどのように応じたかによって決まる。神の審判の基準は、人がどれだけ学んで知識を蓄積し、出世し、有名になり、財産を得るかという冨の蓄積ではなく、どれだけ恵まれない人々を助けたかという善行にかかっている。人を助けることは難しくないとこの教えは説く。空腹の人に食べさせ、喉が渇いた人に飲ませ、旅人をもてなし、病人を見舞い、牢獄にいる人を慰めることは、誰にもできることである。この教えが勧めるのは、大金を人に与えたり、歴史に名を留めるような大きなことをするのではない。身近な人々に善行で仕えることなのである。平凡な人でも行える善行を勧めている。
・この教えで人助けをした人は、自分が善行をしている意識さえなく、それどころか、隣人を助けることはむしろ当然と考えている。助けないではおれないから助ける、彼らは自然に心から湧き出た行動をしているのである。だからもちろん善行の報酬を求めたりはしない。
−ガラテヤ6:9「たゆまず善を行いましょう、飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈りとることになります。」
3.マザ−・テレサが日本人に勧めた善行とは
・マザ−・テレサは「身近にいる人をまず助ける」よう勧めた。彼女は何よりも貧しい人を助けることを優先した。彼女がノ−ベル平和賞の記念晩餐会を断った。「晩餐会はいりません。そのお金を貧しい人に使って下さい」。マザ−・テレサは常に、「大切なことは、遠くにいる貧しい人や、大きな援助をすることではなく、身近な人に対して、愛をもって接することです」と語っていた。1997年マザ−・テレサはインドのカルカッタの、自身が創立した修道院で「もう息ができない」の一言を残して天に召された。マザ−の生涯は、インドの貧しい人たちに捧げ切った87年だった。
-松見俊・ダイアナ妃とマザー・テレサ「1997年夏のほぼ同じ時期に、ダイアナ妃とマザー・テレサが亡くなった。ダイアナ妃は人に愛され、幸せになりたいと願い、それを追い続け、それが得られないままにこの世を去っていった。一方、マザー・テレサは人に愛を与えたい、幸せを与えたいと願い続けた。マザー・テレサの生涯は満たされた生涯だったのではないかと思う」
・マザ−・テレサは1981年、82年、84年と三度来日した。最初の来日の時、インドの貧困者への援助を申し出た日本の企業に対し、「日本人はインドのことよりも、日本の中の貧しい人々への配慮を優先すべきです。愛はまず身近なところから始めましょう」と語った。そして語った「私は短期間しか日本に滞在しないので手を貸してあげるのは、僭越だと思い何もしませんでしたが、もし、女性が路上に倒れていたら、その場で語りかけ、助けていたと思います。豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも愛されなという心の飢えはないでしょうか。誰からも必要とされず、愛されていないという心の貧しさはないでしょうか。物質的貧しさより心の貧しさはより深刻です。心の貧しさは、一切れのパンを食べられない飢えより、もっと貧しいことです。日本の皆さん、豊かさの中にも貧しさのあることを忘れないでください」。
-粕谷甲一・第二バチカン公会議と私たちの歩む道から「マザー・テレサが行ったことは病気の治癒ではない。ある時、彼女は言う「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、 thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」。