1.人の子が来る
・イエスの時代、人々は終末を待望していた。国は異邦人に支配され、生活は苦しかった。人々は現在に希望を持てず、新しい時代が来ることを待ち望んでいた。その中で、イエスの「神の国が来た」という教えは人々を惹きつけた。しかしイエスはローマにより処刑された。だが復活された。初代教会はイエスの復活を終末の始まりと理解し、イエスが自分たちの生きているうちに再臨され、神の国が始まると期待していた。マタイは旧約聖書(イザヤ、ダニエル、ゼカリヤ等)を引用して、その時の様を描く。
−マタイ24:29−31「『その苦難の日々の後、太陽はたちまち暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。』」
・マタイは24章後半から25章にかけて、終末を迎える時、信徒はどうすべきかを7つの喩えで示す。いちじくの喩えがその最初である。いちじくの木は5〜6月頃になると若葉を出し、枝が柔らかくなり、夏が近づいたと分かる。それと同じように、神の国も近づいているとイエスは言われた。マタイはこのイエスの言葉を基本に、終末を前にした信徒たちに注意深くあれと警告する。そして、この世が終わってもイエスの言葉は滅びない故に、御言葉に従って生きよと伝える。
−マタイ24:32−35「『いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていることを悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。』」
2.その日その時はだれも知らないから、目を覚ましていなさい。
・終末の日がいつ来るのかは誰にも分からない。知るのは主なる神のみである。ノアの洪水の時も人々は何も気付かず、飲み食いし、日々の暮らしを続けていた。そこへ洪水が突然やって来た。人の子もそれと同じように突然に来る。神殿は崩壊し、国は滅んだが、終末は来なかった。終末はないと弛緩していた教会の人々に、マタイは「それは必ず来るから備えよ」と警告する。
−マタイ24:36−39「『その日、その時は、だれも知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。』」
・神の裁きは予告もなく突然始まる。畑仕事や臼で穀物を挽く日常の何気ない労働の中に突然神の裁きが始まる。二人の男が畑で働いていると一人が連れ去られ、一人はその場に残される。二人の女が、臼で穀物を挽いていると突然、一人は連れ去られ、一人は残される。それが終末の時である。
−マタイ24:40−41「『そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。』」
・だから「目を覚ましていなさい」と言われる。主の来臨が何時あるか分からないからである。夜の闇にまぎれて侵入して来る泥棒のように、人の子は思いがけない時に来る。
−マタイ24:42−44「『だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』」
3.忠実な僕と悪い僕
・この喩えは、人の子の来臨を迎える時の良い例と悪い例を、主人との約束を果たした僕と果たさなかった僕を例として語る。
−マタイ24:45−47「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間通り彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、一体誰であろうか。主人が帰って来たとき、言われた通りにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を任せるにちがいない。」」
・主人が出かけた後、悪い僕はとんでもない行動に出る。仲間に暴力をふるって追い払い、別の仲間を誘いこんで、飲食にふけり乱れた所へ主人が帰って来て、彼は厳しく罰せられる。この例話は、再臨などないと思い込み、油断する教会の指導者に向けられている。
−マタイ24;48−51「『しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
4.終末の喩えを私たちはどのように聞くのか
・終末、世の終わりと言う考え方は、日本人にはない。日本人にとって歴史は円環である。春が終われば夏が来て、やがて秋になり冬になり、そして再び春が来る。季節が巡るように歴史もめぐる。しかし、聖書は歴史には一つの到達点があり、目標があると主張する。それが終末だ。この終末を死に喩えてみると判りやすい。私たちは今日生きている、明日も生きるだろう、恐らくは明後日も。しかし、終わりの日は必ず来る。明日は今日の繰り返しではない。聖書が「目を覚まして待っていなさい」ということは、「私たちは死に向かって歩んでいるのに、今のような生き方を続けて良いのか」と問いかけている。私たちにとって終末を覚えるとは、私たち自身の死を覚えることだ。
-マタイ26:36-41「イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた『私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい』・・・それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた『あなたがたはこのように、わずか一時も私と共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い』」。
・死は私たちの理解を超える出来事だ。死んだらどうなるのか、誰も知らない。知らないから怖い。怖いから、人は死を見つめようとしない。多くの人は将来の死を忘れて現在を楽しもうとするが、それは何の解決にもならない。ルカ12章16節から始まる「愚かな金持ちの喩え」がその典型だ。
-ルカ12;16-20「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った『倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめと』。しかし神は『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」。
・別な人は「この世は希望がない」として、来世にのみ目を注ぐ信仰に走る。霊的交わりを強調する人たちも多いが、そこにも満たしはない。死を忘れるために神秘に目を向けているだけである。聖書は「目を覚まして待て」と教える。目を覚ましている=死を見つめる。死を見つめた時、私たちは大事だと思っていたものが、実は本当に大事なものではなかったことを見出す。お金があっても死の前には役立たないし、生涯をかけた仕事にしても死ねば意味がなくなる。死を見つめることによって、私たちはこの世の出来事が全て過ぎ去るもの、相対的なものにしか過ぎないことを知り、それらから自由になる。
−ルカ21:34−36「『放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意にあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。』」