江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年5月21日祈祷会(ルカ8章、巡回伝道にて)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.たとえで語られるイエス

・イエスは、当初はユダヤ教会堂(シナゴーク)で安息日毎に福音を宣教されたが、律法学者やパリサイ人は次第にイエスを敵視するようになり、会堂の扉を閉じた。そのため、イエスは弟子たちを連れて巡回伝道に出られた。イエスの周りには大勢の群集が集まってきた。その群集に、イエスは例えで話をされた。
−ルカ8:5-8「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。他の種は石地に落ち芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。他の種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、他の種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。
・11節から例えの意味が解説される。上辺だけの熱狂、世のことに心を奪われる人は、聞いてもその福音を育てることが出来ない。「あなたがたはそうあるな、聞いたことを行え」とイエスは言われる。
−ルカ8:11-15「種は神の言葉である。道端の者とは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地の者とは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」。
・ともし火の例えも同じだ。信仰を与えられてもそれを隠してしまう人は、やがて信仰までなくすと警告される。
−ルカ8:16-18「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」。

2.天地を支配される方を見よ

・8章後半では4つの奇跡が語られる。自然、悪霊、病気、死をも支配されるイエス像をルカは記す。
−ルカ22-25「イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り・・・渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。・・・弟子たちは恐れ驚いて『一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか』と互いに言った」。
・当時の人々は、嵐は悪霊が起こすと信じていた。その悪霊を支配されるイエスを弟子たちは畏れた。次のゲラサの悪霊追放物語もまた三福音書全てに記事がある。
−ルカ8:32-33「その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ」。
・バークレーは次のように解説する「イエスは悪霊につかれた人をいやされようとした。男は大声を上げて暴れ始め、異様な声に驚いた豚の群れは恐怖に押し出されて湖に突入した」。バークレーは奇跡を合理化して説明しようとするが、次の長血をわずらう女の話は合理化できない。奇跡は奇跡として受け取るべきであろう。
−ルカ8:43-48「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった・・・イエスは、「だれかが私に触れた。私から力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』」。
・会堂長ヤイロの娘のいやしも有名だ。死んだ娘が生き返った。
−ルカ8:52-55「人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた『泣くな。死んだのではない。眠っているのだ』。人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった」。
・ルカは奇跡を通して、神の国が来た、神の支配が、カオス(混沌)をコスモス(調和)に変え始めたと主張している。奇跡とは神の力による人間の歴史への介入、再創造の出来事なのだ。
−創世記1:2-3「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた『光あれ』。こうして、光があった」。

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