江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年3月12日祈祷会(使徒言行録26章、アグリッパ王の前でのパウロの弁明)

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.パウロの弁明

・エルサレムでは公正な裁判を受けられないと判断したパウロは、皇帝に上訴した。訴訟はローマに移送されることになり、ローマ総督は移送申立書を書くために、ユダヤ王アグリッパを共に、パウロの事情聴取を行う。パウロはまず、自分はいかに熱心なユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害したかを述べる。
−使徒言行録26:9-11「私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです」
・「自分の熱心は方向が間違っていた。復活のイエスに出会ってそれがわかった」と、パウロは自己の回心体験を、反省を込めて証ししていく。狂信は人を神から離れさせ、異端審問官に変えてしまう。
−使徒言行録26:12-14「私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました」。
・「とげのついた棒」とは、若い牛を飼いならすために後ろ足につけられた棒だ。牛が飼い主に逆らって後ろ足をけ上げると、とげにぶつかり痛い思いをする。それを通して、牛は従順を学んでいく。主に逆らって迫害を続けることは、「とげの突いた棒を振り回すような」、神から離れていく行為なのだとパウロは示された。
−使徒言行録26:15-16「私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『私は、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである』」。
・伝道は、「人々の目を開いて、闇から光へ、サタンから神へ立ち返らせることだ」。伝道は、人を光へ、神へと導く。多くのクリスチャンたちが教会での奉仕に疲れ、喜びがなくなっているならば、何かが間違っている。
−使徒言行録26:17-18「私は、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである』」

2.私たちはどう信仰告白をすべきか

・ここに私たちの証しの原点がある。世の人々は、「十字架の贖いを信じ、復活に希望を置く信徒は愚かだ」と考える。証明できない出来事を信じるからだ。ローマ総督フェストスもそう考えた。
−使徒言行録26:24「パウロがこう弁明していると、フェストゥスは大声で言った『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ』」。
・私たちは神を信じることを通して、真理が見えるようになったことを証ししていく。真理は証しできるのだ。
−悪がいつまでも放置されることはない。何故なら、神は全てを承知されている。世界史を見ればそれはわかる。
−人が神を見失った時、人は己を神とする。神なしの世界はエゴイズムの地獄だ。社会を見ればそれがわかる。
・「人が自分の力で救いを得ようとすること事態が傲慢なのだ。キリストに出会ってそれがわかった」とパウロは言う。人は律法を守ることによっては救われえない、救いは恵みなのだとパウロは力説する。
−ローマ7:18-24「私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです・・・内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を・・・罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」。
・彼は自己の弁明をしているのではない。伝道している。彼は自己の命が危ない裁きの場でも、主を証している。
−使徒言行録26:27-28「『アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います』。アグリッパはパウロに言った『短い時間で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか』」。
・私たちは証しする「私は惨めでした。私はイエスを見出した。今、私の生活は満たされ、私は幸福だ」。私たちの証しの主語は「私」だ。これは本物ではない。本当の証し=信仰告白の主語は、神であるべきだ。
−使徒言行録26:23「私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです」。

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