1.ルカの伝える復活物語
・イエスの死んだ三日目の朝、婦人たちが墓に行き、天使から「イエスはよみがえられた」と告げられる出来事があった。婦人たちはそのことを弟子たちに報告したが、弟子たちはそれを「たわごと」と思い、信じなかった。
−ルカ24:11-12「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った」。
・同じ日の昼間、エマオに向かうクレオパたちにイエスが現れ、彼らは仲間の弟子たちに報告するために夜の道を急いでエルサレムに戻った。戻った時、他の弟子たちは集まって、「イエスがペテロに現れた」と話していた。
−ルカ24:33-35「エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」。
・その時、イエスご自身が彼らの前に現れた。弟子たちは呆然としてイエスを見つめる。ペテロは「主に出会った」と報告し、クレオパも同じ報告をしているのに、今、「彼らは恐れおののいた」。
−ルカ24:36-37「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」。
・信じることの出来ない弟子たちのためにイエスは手や足を見せられ、食事までされた。
−ルカ24:38-39「イエスは言われた『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある』」。
・やっと信じた弟子たちに、イエスはこの復活の証人になりなさいと言われた。
−ルカ24:45-47「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣伝えられると。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となるのだ。」。
・ルカ24章の記事はヨハネが伝えるイエスの顕現記事と密接に関係している。おそらく同じ体験を別の視点から述べたものだ。
−ヨハネ20:19-20「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」。
・私たちが復活を信じることができるとしたら、それは私たちも復活のキリストに出会った時だ。もし、私たちが出会ったイエスが偽りであるとすれば、私たちには何の希望もなくなり、私たちの信仰もまったくの無駄になる。
−?コリ15:14「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」
2.復活をどう理解するか
・復活を多くの聖書学者たちは、「十字架の神話的象徴」、あるいは「弟子たちの宗教体験」と考える。
−ブルトマン「イエスの十字架の上での刑死は史実だが、復活はその史実としてのイエスの十字架の意味を、当時の神話的象徴で表現したものである」
−遠藤周作「復活は歴史的事実であるというよりも、弟子たちの宗教体験と考えるべきだ」
・復活は聖書の中心的使信であり、多くの歴史的事柄を含んでいる。
−隠れていた弟子たちが復活のイエスに出会って、「主はよみがえられた」と公的宣教を始めたのは、歴史的事実だ。
−初代教会が、ユダヤ教安息日の土曜日ではなくイエス復活日の日曜日に、聖日礼拝を始めたことは歴史的事実だ。
−教会の迫害者であったパウロが、復活のイエスに出会って伝道者に変えられたことも歴史的事実だ。
・同時に復活のイエスに出会ったのは弟子たちだけであり、信仰なしには出会いがないのも事実だ。
−?コリ15:3-8「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。・・・ 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」
・ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがある。ビオスは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を意味する。復活をビオス(生物学的命)と考える故に混乱が生じる。復活はゾーエー(人格的な命)の問題なのだ。
−十二弟子が復活のキリストに出会ったことは人格的な事実であり、学問的に検証できる事柄ではない。
−パウロのイエスとの出会いも他の人には見えない、人格的な事実だった(使徒言行録9:7)。