1.イエスの昇天
・イエスは復活後40日間、弟子たちと共におられ、「エルサレムに留まり、聖霊が下るのを待て」といわれた。
―使徒言行録1:3-5「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである』」。
・イエスがバプテスマを受けられた時天から霊が下ったように、霊が弟子たちに下される。弟子たちはその霊を受けて、イエスの御業を継承するものとなる。聖霊を受けるとはイエスの御業を継承するものになることだ。
―マルコ1:9-11「(イエスが)水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が、天から聞こえた」。
・弟子たちは聖霊を受ければ、神の国が来ると期待していた。求めて神の国は地上の国、祖国ユダヤの再建であった。私たちが求めるのも地上の神の国、現実の生活が良くなり、災いから解放され幸福になることだ。
―使徒言行録1:6「『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた」。
・しかし、イエスは「神の国がいつ完成するかは父の権限であって、あなた方は今為すべきことを為せ」として、イエスの証人になるように求められた。弟子になるとは出来事の証人になることだ。証しの生涯を送ることだ。
―使徒言行録1:7-8「イエスは言われた『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる』」。
・弟子たちは待たなければいけない。しかし、希望を抱いて、為すべきことをしながら待つ。待つとは無為の行為ではない。何故なら、神の国は完成してはいないが、既に来たからである。
―使徒言行録1:9-11「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。
2.新しい使徒の任命
・弟子たちはエルサレムに戻った。エルサレムは危険な場所であり、かつて弟子たちは戸を閉めて隠れていた(ヨハネ20:19)。今、彼らは階上の部屋に、祈るために集まった。もうあの臆病な弟子たちではない。
―使徒言行録1:12-13「使徒たちは、オリーブ畑と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった」。
・そこにはユダを除く11人と、イエスに従ってきた婦人たち、イエスの母や兄弟たちもいた。イエスの兄弟たちは、かつてはイエスを気が違ったとして取り押さえに来た者たちだが(マルコ3:21)、今は信じる者とされている。
―使徒言行録1:14「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。
・祈りが終わるとペテロは立ち上がって、ユダに代わる新しい使徒の選出を提案した。ユダは主を裏切ったが、他の弟子たちもまた裏切った。その弱者の集団に主は宣教を託された。
―使徒言行録1:16「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」。
・新しい使徒の選別を弟子たちは始める。その要件は「最初からイエスに従い、復活と昇天を目撃した者」である。
―使徒言行録1:21 -22「主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」
・パウロの使徒性が繰り返し疑われた原因がここにある。パウロは直弟子ではなかった。しかし選ばれたマテイアは以降顔を出さない。ペテロさえ限定的な働きしかしない。主の選びと人の選びは異なる。
―?コリント3:2-3「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」。