1.新しいエルサレム
・古い世界は滅ぼされ、新しいエルサレムが天から降りてくるのをヨハネは見た。
―黙示録21:1-2「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。
・神の国はイエス降誕により始まったが今完成した。神の国は天から来るのであって、人の努力により生まれるのではない。地上のどのようなユートピア運動も完成しない、約束の地は地上にはないことを知るべきだ。
―マタイ4:17「そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。
・その神の国では、死も悲しみも嘆きもなくなる。神が共におられるからである。
―黙示録21:3-4「私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。
・その時、天で厳かな声が響く「事は成就した。このことを書き記し、地上で苦しむものに書き送れ」と。地上でどのような悲惨があろうとも、天では神の国は完成した。そのことを知らせよと。
―黙示録21:5-7「玉座に座っておられる方が『見よ、私は万物を新しくする』と言い、また『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。また、私に言われた『事は成就した。私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである』」。
・強制収容所を生き残ったV.フランクルはその記録「夜と霧」の中で書く「信仰とは、闇の時間を、光の存在を信じながら生きることだ」。強制収容所では死んでいったのは体の弱い者ではなく、希望を無くした者だった。人を生かすものは肉体ではなく、希望だ。
―黙示録21:8「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」
2.楽園の回復
・新しいエルサレムがエゼキエルの見た幻を礎に語れていく。エゼキエルは捕囚地のバビロンでエルサレム神殿再建の幻を見た。しかしヨハネの見た幻ではもう神殿はない。神が共におられるから臨在の神殿は不要になったのだ。
―黙示録21:22-23「私は、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」。
・都の城門はいつも開けられていた。しかし、汚れた者、罪を悔い改めぬ者は天の国には入れなかった。
―黙示録21:24-27「都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」。
・都の中央には川が流れ、両岸には命の木が植えられていた。かつて失われたパラダイス(エデンの園)が今、回復された。創世記の失楽園から始まった聖書の物語が、黙示録の楽園回復で完了する。
―黙示録22:1-5「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。・・・神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである」。
・アウグスティヌスはローマ帝国の滅亡のさなかに「神の国」を書いた(410年)。彼は地上の王国の崩壊を神のわざと見ている。地上でどのような悲惨な出来事があっても、そこに希望を持つ。彼こそはヨハネの後継者である。
―アウグスティヌス・神の国「神は人間の邪悪な生活を矯正し、抑制するため、戦争という手段を用いられ、またこのような患難を通じて、善良で賞賛に価する者を陶冶されるのである。神は彼らをこのように試みたのち、ある者をより良き世界に移し、ある者を他の優れた目的のため地上に引き留められる」。
・地上の出来事は全て過ぎ去る。私たちが依拠すべきは過ぎ去る出来事ではなく、過ぎ去らないものだ。
―?コリント4:18「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。