1.終末の遅延にいらだつ人々
・ペテロは3章で、終末と主の再臨について詳述する。初代教会は主の再臨が近いとして、緊張のうちに信仰生活を送っていたが、それが来ないために、教会内に終末・再臨についての疑念が高まっていたたからだ。
―?ペテロ3:3-4「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います『主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか』」。
・イエスは生前繰り返し「私は再び来る。その時に全ては完成する」と言われていた。
―マルコ13:24-27「それらの日には・・・太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
・初代教会はこの約束の上に立てられ、人々は全てを捨てて共同生活を行い、この日を待った。
―?テサロニケ3:13「私たちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、私たちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように」。
・しかし、いくら待ってもその日は来ない。主の再臨はないのではないかという疑念が人々の心に出てきた。ペテロは主が約束をたがえられたのではない、主は忍耐して一人も滅びないように待っておられるのだと説く。
―?ペテロ3:9「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」。
・ペテロは「終わりの日は必ず来る。あなた方は日々やるべきことを行ってその日を待て」と勧める。
―?ペテロ3:10-13「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかし私たちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。
2.私たちにとって終末とは何か
・天地は滅びる、この世界は有限であるというのが、聖書の基本的な考え方だ。
―マタイ24:35「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」
・個人にとっての終末は死である。その死にどう対応するのか。ある人はそれを無視する。
―イザヤ22:13「しかし、見よ、彼らは喜び祝い、牛を殺し、羊を屠り、肉を食らい、酒を飲んで言った『食らえ、飲め、明日は死ぬのだから』と」。
・終末を死に置き換えた時、この問題は私たちの問題になる。その日に備えて何もしないのは愚かだ。
―ルカ17:27「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」。
・ペテロは詩篇90:4を引用して言う「主の前では千年は1年のようであり、1年は千年のようだ」と。
―?ペテロ3:8「このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」。
・1日は千年に匹敵する時間である。いろいろなことが出来る。同時に、残された時は無限ではない。決断を延ばしたり、時間を浪費してはいけないと。
―?ペテロ3:14「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、傷や汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい」。
・終末は時間的な終わりであるとともに、目的の成就のときである。なすべきことに励みなさい。
―?テサロニケ4:11「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」。
・そしてパウロのように、「自分は為すべきことをした」といって、終末を迎えなさい。
―?テモテ4:6-7「世を去る時が近づきました。私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」。
・後は主に委ねよ、主はあなたがどのように生きたかを知っておられる。
―イザヤ49:4「私は思った、私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。