1.偽教師の暗躍に悩む友へ
・イエスが十字架で死なれてから30年がたった紀元60頃、人々はいくら待っても終末が来ないことに苛立ち、自己救済を求めるようになっていた。神の救いの約束を待ちきれなくなったのである。
―?ペテロ2:1-2「あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。・・・多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。・・・彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします」。
・終末の救いが信じられない時、人は、この世でいかに幸福を得るか、自己実現をするかが人生の目標となる。それは自己のために他者をむさぼる生き方であり、そこには本当の救いはないとペテロは証しする。
―?ペテロ1:3-4「主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とに関わる全てのものを、私たちに与えて下さいました。それは私たちを御自身の栄光と力ある業とで召し出して下さった方を認識させることによるのです。この栄光と力ある業とによって、私たちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです」。
・神の救いの約束を信じて今を生きる、自分が召され、選ばれていることを信じ、為すべき事を行う。そのことによってのみ救いは来ることを知りなさい。人の罪の問題が解決されない以上、自力での救いはありえないのだ。
―?ペテロ1:5-11「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。・・・だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。こうして、私たちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります」。
・強制収容所にいた心理学者フランクルは、1944年のクリスマスが終わった後、人々が次から次に死んでいくのを見た。解放される希望が果たされず、生きる気力を無くしていったからだ。フランクルは言う『自分が人生から何を望みうるかよりも、人生から何を望まれているかを考えることにより、人はより良く生きうる」と。
−V.フランクル『夜と霧』より「1944年のクリスマスと1945年の新年との間にわれわれは収容所では未だかってなかったほどの大量の死亡者が出た。収容所の医長の見解によれば、それは、過酷な労働条件によっても、また悪化した栄養状態によっても説明され得るものではなく・・・囚人の多数がクリスマスには家に帰れるだろうという素朴な希望に身を任せた事実の中にもとめられるのである。問題は、人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかなのである・・・われわれが人生の意味を問うのではなくて、我々自身が問われたものとして体験されるのである」。
2.主の再臨の約束に固く立て
・私たちの希望は主が再臨され、神の国が来ることにかかっている。この希望は絵空事ではない。私たちは主が栄光に輝く姿をこの目で見たし、『これは私の子。これに聴け』といわれた神の声も聴いたのだとペテロは言う。
―?ペテロ1:16-18「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです」。
・これはペテロたちが目撃した山上の変貌を指している。
―マルコ9:2-8「イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。・・・雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした『これは私の愛する子。これに聞け』。弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」。
・ペテロは言う「私たちの希望はこのイエスの来臨にかかっているのだ」とペテロは言う。
―?ペテロ1:19-21「こうして、私たちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」。