1.贖罪の意味
・他者の血を流した者は、自らの血を流すことを求められる。被害者は常に加害者の血を求める。人の罪は洗えば流されるようなものではなく、血は血を求める。アメリカがアフガンやイラクを攻撃したのも血の報復だ。
―創世記9:5-6「あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。
・旧約の律法では大祭司は年に一度至聖所に入り、罪の赦しのために雄牛や雄山羊をほふって捧げる。しかし、人の罪はそのような動物犠牲では購いきれるものではない。雄牛や雄山羊の血は罪を取り除くことが出来ない。
―ヘブル10:1-4「律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」。
・罪の赦しのために動物のいけにえを捧げても何の意味もないのだ。神がいけにえの肉や血を必要とされるだろうか。神が望まれるのは、あなたがあなた自身を捧げることだ。
―詩篇51:18-19「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれを捧げます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。
・しかし、人間は罪のために自分を捧げることが出来ない。そのため、イエスが代わりにご自身を捧げられた。
―ヘブル10:5-7「それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。『あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、私のために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、私は言いました。御覧ください。私は来ました。聖書の巻物に私について書いてあるとおり、神よ、御心を行うために』」。
・このキリストの犠牲によってあなたは罪を赦された。もうあなたは犠牲を捧げる必要はなくなった。
―ヘブル10:16-18「それらの日の後、私が、彼らと結ぶ契約はこれであると、主は言われる。私の律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう。もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」。
2.罪を購われた者として生きる
・イエスがご自身を捧げてくださったのだから、私たちはそれにふさわしい者として生きるべきだ。
―ヘブル10:19-25「兄弟たち、私たちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道を私たちのために開いてくださったのです。・・・約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」。
・あなた方はかつては迫害を受けたのにそれを耐えしのいだではないか。捕らえられ、拷問され、競技場に引き出されて見世物にもされた。それでも耐え忍んで現在まで生きてきたではないか。
―ヘブル10:32-34「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見せ物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです」。
・だから与えられた確信を捨てるな、忍耐せよ。主はまもなく来られるから、その日を待ち望め。
―ヘブル10:35-39「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。『もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。私の正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者は私の心に適わない』。しかし、私たちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」。
・この試練はあなたを鍛えるために与えられている。この試練を通してあなたは純粋なものに精錬されていくのだ。
―ヘブル12:5-12「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。・・・およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。