江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年9月13日祈祷会(ヘブル9章、キリストの贖罪)

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1.地上の大祭司とキリスト

・ヘブル書は古い契約と新しい契約を対比することを通して、新しい契約の意味を強調する。古い契約での礼拝は祭司による動物を捧げる贖罪儀式であった。そこでは朝夕犠牲が捧げられた。
―ヘブル9:1-3「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました」。
・聖所の奥には至聖所あり、大祭司のみが年に一度入る。大祭司は7月10日の贖罪日に至聖所に入り、そこで自分と家族の罪のためにまず雄牛を屠りその血を、民のためには雄山羊を屠りその血を捧げる。
―出エジプト30:10「アロンは年に一度、この香をたく祭壇の四隅の角に贖罪の献げ物の血を塗って、罪の贖いの儀式を行う。代々にわたって、年に一度、その所で罪の贖いの儀式を行う」。
・人は罪のために他者の血を流す。その典型は9.11の報復のために流されたアフガンとイラクの人々の血だ。何故人は報復のために他者の血を求めるのか。人間の罪は重い。その罪はあがなわれなければ、人は負い切れない。
―レビ記17:11「生き物の命は血の中にあるからである。私が血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。
・聖所と至聖所は幕でさえぎられ、神の臨在する至聖所には、人は近づけない。この中で犠牲が捧げられても、人は神に近づくことは出来ない。そこでは不十分な犠牲が捧げられるだけであり、魂の救済はなされなかった。
―ヘブル9:7-9「第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです」。
・この聖所と至聖所をさえぎる幕がイエスの十字架死の時に切って落とされた。新しいいけにえが神に受け入れられたのである。ここに新しい契約が締結された。
‐マタイ27:50-52「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」。
・キリストはこのようにして新しい契約を自らがいけにえとなることで結ばれた。
‐ヘブル9:12「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。

2.罪を購う唯一のいけにえ

・遺言は遺言者が死ぬことにより、法的効力を持つ。新しい契約はイエスの死によって有効なものとなった。
―ヘブル9:15-17「最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません」。
・大祭司は天上の聖所の写しに過ぎない地上の聖所で、犠牲を捧げる。しかし、今やキリストは私たちの罪の犠牲として死に、神の御前に立ってくださった。
―ヘブル9:23-24「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今や私たちのために神の御前に現れてくださったからです」。
・キリストはただ一度きりその犠牲を捧げられ、罪の購いを永遠になされた。だからもういけにえは必要がない。もう殺し合いをする必要はなくなったのに、人は殺し合いをする。あなた方も迫害によって殺されようとしている。
‐ヘブル9:25-26「キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。・・・世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」。
・しかし、キリストは生きておられる。私たちの人生は一度きりで、死ねば神の前に出て審きを受ける。キリストも一度死なれ、今は天の玉座におられる。そして私たちの審きの時に、私たちのそばに立ってくださる。
‐ヘブル9:27-28「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」。

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