1.神に喜ばれる生活とは何か
・キリストを信じる者は、神に喜ばれる生活をしたいと願う。神に喜ばれる生活とは、清くなることだ。
−?テサロニケ4:1-3「主イエスに結ばれた者として私たちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、私たちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。・・・実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」。
・清くなるとは聖なる者になることだ。聖とは、道徳的に正しいことではなく、神に結ばれた生活をすることだ。−レビ記19:2「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主である私は聖なる者である」。
・それは具体的には、相手を貪らない生活だ。不倫や姦淫が禁じられるのは、それが自分の情欲の満足を求めて、相手を踏みつけ、欺く行為になるからだ。不倫や姦淫は何もよいものを生まない。
−?テサロニケ4:3-6「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。私たちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです」。
・神は私たちが聖なる生活をするように招かれた。それを知りながら無視する者は、この招きを汚すものだ。
−?テサロニケ4:7-8「神が私たちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです」。
2.終末を正しく待ち望め
・初代教会の人たちは終末=キリストの再臨が、自分たちの生きているうちに来ると信じていた。
使徒行伝1:6-11「使徒たちは集まって『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・・私の証人となる』。こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた・・・彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。
・終末=キリストの再臨を待ち望む人々は、日常の仕事を軽視し、教会に寄食する人々もいた。パウロはキリスト者はいかなる時にも、落ち着いた生活をして、日々の仕事に励めと戒める。
−?テサロニケ4:11-12「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」。
・終末がいつ来るか、私たちは知らない。私たちにとって身近な終末は死である。死を前にした時、どのように生きるべきか。宗教改革者ルターの言葉は私たちに道を示す。
−マルテイン・ルター「明日、世の終わりが来ようと、私はりんごの木を植える」。
・再臨前に死んでいった家族の救いを気にする人もいた。パウロは復活を信じる私たちには不安はないと慰める。
−?テサロニケ4:13-14「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。
・終末=再臨がどのような形で来るのか、私たちは知らない。パウロは自分の考え方をここに述べる。
−?テサロニケ4:15-17「主が来られる日まで生き残る私たちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」。
・終末・再臨がどのような形で来るか、私たちは知らない。しかし、御国がこの地上に来る日を私たちは待ち望み、為すべき事を為していく。今はわからなくともやがてわかる日が来るから、今は求めずに待つ。
−?コリント13:12「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。