1.私たちは召されている
・テトスはギリシア人でパウロの宣教で改心し、伝道旅行に従った。コリント教会の再建時にはパウロの使者として働き、今はパウロからクレタ島に派遣され、諸教会の基礎作りを任されていた。
―テトス1:1-5「神の僕、イエス・キリストの使徒パウロから・・・信仰を共にするまことの子テトスへ。父である神と私たちの救い主キリスト・イエスからの恵みと平和とがあるように。あなたをクレタに残してきたのは、私が指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです」。
・パウロはクレタでテトスと共に伝道し、町々に多くの家の教会が立てられた。しかし、組織は未整備であり、各教会に信頼できる指導者(長老、監督)を選ぶ必要があった。その長老の選定基準をパウロはテトスに書く。
―テトス1:6-9「長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって、放蕩を責められたり、不従順であったりしてはなりません。監督は神から任命された管理者であるので、非難される点があってはならないのです。わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず、乱暴でなく、恥ずべき利益をむさぼらず、かえって、客を親切にもてなし、善を愛し、分別があり、正しく、清く、自分を制し、教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る人でなければなりません」。
・評判が良いこと、家庭が円満であり、節制に勤め、親切で分別があることが求められている。しかし、牧師も罪人に過ぎず、肉の欲から自由ではない。牧師に必要な資質はただ一点、神からの召命への信仰である。
―テトス1:3「神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。私たちの救い主である神の命令によって、私はその宣教を委ねられたのです」。
・私たちは右にそれ、左にそれながら、生きる。私たちは落とせば割れる土の器に過ぎない。その私たちに神は福音という宝を委ねて下さった。私たちはそれを知るゆえ、過ちを犯しても、繰り返し神に立ち返るのだ。
―?コリント4:7-9「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために。私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。
2.異なる教えとの戦いに中にあって
・クレタでも異なる教えを説く者があった。彼らは教会の教えに従わず、勝手な教えを広め、人々に多額の謝礼を要求する。彼らを教会から排除しなさい、そうしないと、教会が崩壊する危険性があるとパウロは警告する。
―テトス1:10-14「不従順な者、無益な話をする者、人を惑わす者が多いのです。特に割礼を受けている人たちの中に、そういう者がいます。その者たちを沈黙させねばなりません。彼らは恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、数々の家庭を覆しています。・・・彼らを厳しく戒めて、信仰を健全に保たせ、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている者の掟に心を奪われないようにさせなさい」。
・ユダヤ教徒は豚肉を食することを禁じ、カトリック教徒は金曜日の肉食を禁じ、ピューリタンは禁酒禁煙を信徒の要件とする。人は信仰を見える形式と儀式の中に閉じ込めやすい。しかし、信仰は飲食の問題ではないのだ。汚れは口から入るものではなく、口から出るものなのだ(マルコ7:14−23参照)
―テトス1:15-16「清い人には、すべてが清いのです。だが、汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です」。
・異端反撃は両刃の刃だ。イギリスで迫害された清教徒は自由を求めてアメリカに移住し、神の国を建設しようとした。その過程で生じたものは、後からやってきた他教派の人々と異教徒である先住民族への迫害であった。被害者は容易に加害者に変わる。信仰に対する熱心が人への迫害を招くこともありうるのだ。
―ヨハネ16:2-3「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである」。
・人は支配者になれば、主に聞くことをしないで、自己の考えを推し進める。禁酒禁煙も長老資格も偶像崇拝になりかねない。主はその都度、人を砕かれ、砕きを通して導かれる。私たちには荒野が、試練が必要なのである。
―申命記8:2-3「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・・主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。