1.教会生活における実践的教え
・パウロは1-8章で、神は私たちを救うためにキリストを遣わされたと述べ、9-11章で反逆したイスラエルさえ神は救おうとされていると述べる。12-15章はこの神の側からの行為に対し、私たちはどう応答すべきかを述べる。
-ローマ12:1 「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。
・応答とは礼拝であり、礼拝とは自分の体=生活を供え物として神に捧げることだ。礼拝は主日に教会に集まるだけでなく、毎日の生活を神に献げることだ。
−アモス5:21-24「私はお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。焼き尽くす献げ物を私に献げても、穀物の献げ物を献げても、私は受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌を私から遠ざけよ。・・・正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。
・「自分の体を献げる」事をある人々は「性的純潔」だと考え、カトリックやピューリタンの禁欲主義を生んだ。しかし、体を献げるとは、性を断つ事ではなく、自分の義を捨て、神の義を求めることだ。
−ローマ12:2「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」
・教会において求めるべきは自分の正しさではなく、神の正しさだ。何を神は望んでおられるのかを求めなさい。
−ローマ12:3-5「自分を過大に評価してはなりません。神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。・・・私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。
・教会を形成する愛と、壊す愛がある。自分の正しさだけを主張していく時、教会は壊れることに留意せよ。賜物(カリスマ)は恵み(カリス)として与えられている。恵みは人を生かすものであり、殺すためではない。
−?コリ10:23-24「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。
2.愛に立て
・私たちの生き方の根本は愛だ。イエスが私たちに守るよう与えられた掟は、「互いに愛し合う」ことだ。
−ヨハネ15:12「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。
・教会のお互いを、実の兄弟姉妹のように愛しなさい。出来なければ祈って力をもらいなさい。
−ローマ12:10-11「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい」。
・常に喜びなさい。喜べない時は祈りなさい。あなたの悪口を言う者の祝福を祈りなさい。
−ローマ12:12-14「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。・・・あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」。
・私たちは「泣く者と共に泣く」事は出来る。しかし「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことは難しい。他人の幸福を私たちは妬むからだ。しかし、祈り=キリストの力によってそれが出来るようになる。それが教会の交わりだ。
−ローマ12:15 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。
・世の人々は競争を賞賛し、勝者をほめる。争わない者は弱者として嘲るだろう。弱者でよいではないかとパウロは言う。あなた方は世にならうな。
−ローマ12:17-18「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」。
・パウロの時代、教会は迫害の中にあった。教会員の中には復讐を誓う者もいた。彼らに対してパウロは言う「復讐するな。相手の不義は神の裁きに任せよ。キリストも復讐されなかったではないか」と。
−ローマ12:19-21「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。