1.希望の根拠
・パウロはどのような時にも落胆しない。どのように裏切られ、非難されてもくじけない。それは彼がこの地上の生を越えた希望、復活の命に生かされているからだ。
−?コリ4:18-5:1「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。私たちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」。
・地上の生は幕屋に過ぎない。それは、風が吹けば倒れ、雨が降れば水浸しになる。だから地上の栄光を求めようとは思わないし、また地上で非難され、責められてもくじけない。ただただ、天の住処(復活の体)を地上の幕屋(肉の体)の上に着たいと願っているのだ。
−?コリ5:2-4「私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、私たちは裸のままではおりません。この幕屋に住む私たちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」。
・地上の私は制約を持つ。あなたがたは私の弱さを責めるが、地上の生が幕屋にある事、弱さと汚れの中にある事を知って初めて、人は天上の生を望む。弱さを知った者だけが、他者の弱さを受け入れることが出来る。
−?コリ5:6-9「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。私たちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。
2.キリストの愛に迫られて
・あなた方は「私の気が狂っている」と非難した。確かに私は正気ではない。キリストの愛に駆り立てられているからだ。しかし、あなたたちのためには正気だ。熱心と熱狂は異なるのだ。
−?コリ5:13-14「私たちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛が私たちを駆り立てているからです」。
・パウロはキリストの迫害者であった。そのパウロを神は伝道者として下さった。これほどの赦しを経験したら、気が狂うほど、感謝せざるを得ない。しかしパウロは陶酔しない。彼は彼の神秘体験をほとんど述べない。
−?コリ12:1-5「私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。・・・彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことを私は誇りましょう」。
・キリストが私のために死んで下さったことを知った時、人は正気を失うのだ。その時、人はもう自分のためには生きることが出来ない。自分のために死に、復活して下さった方のために生きる者に変えられる。
−?コリ5:14-15「一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。
・あなた方は、私が生前のイエスに従った弟子でないから使徒ではないと批判する。しかし、復活のキリストに出会った以上、そのような批判が何であろう。人はキリストに出会って全く生まれ変わるのだ。
−?コリ5:16-17「私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。
・これは神のご計画だ。神はキリストを和解の使者として降し、その死によって和解の道を開いて下さった。そして私を召して、その和解の福音をのべる者として下さったのだ。
−?コリ5:18-19「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです」。
・罪の赦しを喜ぶ。これはキリスト者の生の半分だ。和解の福音を伝える、それが残りの半分だ。両者が必要だ。
−?コリ5:20-21「神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって神の義を得ることができたのです」。