1.復活と体のよみがえり
・コリント教会の人たちはキリストの復活は信じていたが、体のよみがえりは信じることが出来なかった。キリストの復活が私たちの復活にならなければ、私たちの信仰は無駄だとパウロは言う。
−?コリ15:12-14「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった・・・キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。
・ギリシャ人は、肉体は滅びるが、霊は不滅であり、死によって霊は天に帰ると信じていた。パウロは、キリストは体を持ってよみがえられ、使徒たちの前に現れたように、人は肉体を持ってよみがえるのだと言う。
−?コリ15:3-8「キリストが・・・聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。・・・次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」。
・体の復活を信じない人は、自分たちもまた復活することを信じることが出来ない。キリストが復活されたから、私たちも復活するのだというのが、私たちへの救いの約束なのだ。
−?コリ15:16-19「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、私たちはすべての人の中で最も惨めな者です」。
・コリントの人たちは、今を救いの完成の時と考えていたがそれは違う。信仰者も死ぬのだ。しかし、死んで、時がきた時に、よみがえるのだ。
−?コリ15:20-26「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。・・・ ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。・・・最後の敵として、死が滅ぼされます」。
2.復活信仰と日々の生活
・どのような体を持って復活するかは、誰も知らない。種が蒔かれて成長する時、種の姿と生育した植物の姿は異なるが同じ生命体であるように、自然の体が霊の体として復活しても、人格は同じ個人なのだ。
−?コリ15:42-44「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」。
・信徒の復活を信じることを通して、私たちは霊の体を着、この世の体から自由になる。
−?コリ15:53-55「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
・私たちは天の命をいただくために、この地にいる。今の生は天の生のための準備と訓練の時だ。
− ?コリ5:1-5「私たちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、私たちは裸のままではおりません。この幕屋に住む私たちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。・・・神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」。
・だから主の業に励めばよい。主に結ばれているならば、この苦労は決して無駄にはならない。
−?コリ15:58「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。
・あなた方の為すべきことは「恐れおののきつつ自分の救いを達成することだ」。救いの確信を持つことだ。
−ピリピ2:12「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」。