1.律法と福音の意味
・ガラテヤの人々は、律法を守らなければ救われないとのユダヤ主義者の勧めで、割礼を受けようとしていた。パウロは「キリストの十字架を仰いで信仰に入ったのに、何故今割礼を受けようとするのか、霊で始めたものを肉で完成しようとしているのか。」と批判する。
-ガラテヤ3:1-3「物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」。
・割礼を受けなければ救われないと言うのか。そうであればこれまでの信仰は無駄であったのか。そんなことがあるわけはないではないか(再浸礼を求めるバプテストの信仰もここで問われている)。
-ガラテヤ3:4-5「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか」。
・主はアブラハムの信仰を義とされたが、それは割礼を受ける前であった(創世記15:6-7)。アブラハムは信じて義とされた。そのしるしとして彼は割礼を受けたのであり、割礼を受けたから義とされたのではない。
-ガラテヤ3:6-7「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」。
・信仰があって行いが生じるのであり、その逆ではない。律法は恵みに対する感謝として与えられたものである。出エジプト記を見よ。主が解放してくださった故に、主の言葉に従えと命じられている。
-出エジプト記 20:2-3「 私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。 あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」。
2.律法は人を救わない
・パウロは創世記にあるアブラハムの生涯を通して、救いとは何かを解き明かしていった。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。その時、アブラハムは割礼を受けていない。無割礼の時に救われたのであれば、何故割礼が救いの条件になるのか」とパウロは問いかける。アブラハムは救われたしるしとして割礼を受けたのに、いつの間にか、「割礼を受けなければ救われない」として、割礼が救いの条件になった、それはおかしいと彼は語る。
―ガラテヤ3:7-9「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」。
・律法は人を救わない。何故なら、人は律法を守ることが出来ないからだ。「殺すな」と言われても、私たちは怒りに駆られて人を呪ってしまい、呪いの先には殺人がある。人間は戦争をやめることができない、それは殺すなという命令を守ることの出来ないしるしだ。「姦淫するな」と言われても私たちは姦淫を犯し続けている。
-ガラテヤ3:10-12「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです」。
・人は律法を守ることは出来ない、律法によっては救われない、だからこそ、キリストが十字架で死なれた。律法の視点から見れば、「木にかけられたキリスト」は呪われている。しかし神はそのキリストを十字架の死から起こされた、つまり律法の呪いから起こされ、そのことを通して神は律法の無効を宣言されたとパウロは語る。
-ガラテヤ3:13-14「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された"霊"を信仰によって受けるためでした」。
3.福音による律法の回復
・人は信じて義とされる。それでは律法は何のために与えられたのか。律法は人々に対する祝福として与えられた。奴隷として働かされたエジプトでは休息の日はなかった。疲れた身体を休めるように安息日が与えられた。
-出エジプト記23:12「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。
・それなのに安息日を守らない者は罰すると言う規定に変わっていく。イエスは祝福を呪いに変えてしまった律法学者の罪を指摘する(ルカ14:1-6)。パウロがガラテヤ書で言うのも、意味の変えられた律法の虚しさである。
-ガラテヤ3:23-25「信仰が現れる前には、私たちは律法の下で監視され、信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、私たちはこのような養育係の下にはいません」。
・神の子とされたしるしとして割礼を受けよという祝福が、割礼を受けなければ救われないという呪いに変えられてしまう。そこに人の罪があり、その罪の贖いのためにイエスが十字架につかれた。人が再び神の子とさせていただく道がキリストによって与えられた。それが福音だ。
-ガラテヤ3:26-27「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。
・キリストを着た私たちにとって、自分がユダヤ人であるかギリシア人であるか、男であるか女であるかはもう問題にはならない。神の前に、私たちは子として、一つになったからだ。
-ガラテヤ3:28「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。
・パウロは奴隷に自由人になるよう勧めない。ギリシア人に割礼を受けてユダヤ人になれと勧めない。奴隷は奴隷のままで、ギリシア人はギリシア人のままで救われるのだ。与えられた情況の中で神の子として生きるのだ。
-?コリ7:17-20「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。・・・割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」。