1.生まれつきの盲人のいやし
・イエスは道端に、生まれつきの盲人が座って、物乞いをしているのを見られた。
―ヨハネ9:1「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」
・弟子たちはイエスが盲人を見つめられているので、イエスにたずねた。
―ヨハネ9:2「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』」
・当時、病気や障害は罪から来ると考えられていた。因果応報の考え方である。
―シャバート55「罪なくして死はなく、咎なくして処罰なし。人が生まれながらの盲であれば、その罪はその人の両親か、さもなければ彼自身の出生以前の存在に求めなければいけない」
・人は自分が不幸にあったり、他人が苦難にあう時「何故私に、何故あの人に」と原因を追究する。その時、本能的に相手を非難して、自分の罪を逃れようとする。
―創世記3:11-13「神は言われた『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか』。アダムは答えた『あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました』。主なる神は女に向かって言われた『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました』。」
・イエスは弟子たちに言われた「他人の罪を数えて、非難したり裁いたりしても何も生まれない。どうすれば、この人に現れた不幸を失くすことが出来るかを神に求めよ」と。
―ヨハネ9:3「イエスはお答えになった『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』。」
・批判からは何も生まれない。苦難を神の栄光に変えるにはどうしたら良いかを、私たちも求めていこう。
―ヨハネ9:4-5「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。私は、世にいる間、世の光である。」
・そして、この男をいやされた。
―ヨハネ9:6-7「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。」
2.いやしの後で
・パリサイ派は、盲人がいやされたことよりも、その日が安息日であることを問題にして、イエスを批判した。
―ヨハネ9:13-16「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。・・・ ファリサイ派の人々の中には、『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない』と言う者もいれば、『どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか』と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。」
・彼らはイエスがなさった事が神の業であるとは信じなかった。しかし、盲の男は信じた。いやされた事実を否定できないからである。
―ヨハネ9:17「人々は盲人であった人に再び言った。『目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか』。彼は『あの方は預言者です』と言った。
・パリサイ派はしつこく、イエスの罪を認めよと男に迫った。しかし、男は引かなかった。
―ヨハネ9:24-25「ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った『神の前で正直に答えなさい。私たちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ』。彼は答えた『あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。』」
・男は自分の上に現れたのは、神の栄光だと主張し続けたが、ユダヤ人たちは認めない。
―ヨハネ9:33-34「『あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです』。 彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出した。」
・あくまでもイエスを信じない人々にイエスは言われた「見えないのに見えると言う所にあなたの罪がある」。
―ヨハネ9:41「イエスは言われた『見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、見えるとあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」