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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2004年2月11日 ヨハネ8:12-30 イエスとユダヤ人の論争

投稿日:2019年8月21日 更新日:

1.イエスの証し

・イエスは御自分こそ「世の光である」と証しされた。
―ヨハネ8:12「イエスは再び言われた。『私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」
・ユダヤ人たちはこの言葉に反発して言った「人が自分で証をする時は、その証は真実ではない。二人または三人の証人がなければ裁くなとモーセも言っている(申命記19:15)」。
―ヨハネ8:13「ファリサイ派の人々が言った『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。』」
・イエスは反論される「私が神の子であることを証明できる人はいるのか、いない。私が神の子であることを証しするのは、父なる神とその神から遣わされた私しかいないではないか」。
―ヨハネ8:14-18「イエスは答えて言われた。『たとえ私が自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、私は知っているからだ。しかし、あなたたちは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない。・・・あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。私は自分について証しをしており、私をお遣わしになった父も私について証しをしてくださる。』」
・ユダヤ人たちはイエスが神から来たことを信じない。信じないとき、いくら論争しても、それは何も生まない。
―ヨハネ8:19「彼らが『あなたの父はどこにいるのか』と言うと、イエスはお答えになった。『あなたたちは、私も私の父も知らない。もし、私を知っていたら、私の父をも知るはずだ。』」

2.人の裁きと神の裁き

・この世において、神を信じるかどうかで、生き方が分かれる。
―神を信じない者の生き方は、律法や道徳や法律によって人を裁く生き方だ。この場合、人間は他者を裁き、また裁かれるので、そこには争いが絶えず、平安はない。
―神を信じる者の生き方は、裁く権利はただ神だけにあり、裁きは神に委ねる。だから、自分は他者を裁かない。愛=他者の罪を数えない=他者を裁かない生き方である。
・他者を裁かない(裁きを神に委ねる)時、そこに神にある平安が生まれる。イエスがヨハネ8章で言われていることはそうであり、パウロが勧める生き方も同じだ。
―ヨハネ8:15-16「あなたたちは肉に従って裁くが、私はだれをも裁かない。しかし、もし私が裁くとすれば、私の裁きは真実である。なぜなら私はひとりではなく、私をお遣わしになった父と共にいるからである。」
―ローマ12:18-20「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復する』と主は言われる」と書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」

3.十字架での証し

・イエスは「私の最終的な証をあなた方は私の十字架を通して見るであろう」と宣言される。
―ヨハネ8:21「イエスはまた言われた。『私は去って行く。あなたたちは私を捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。私の行く所に、あなたたちは来ることができない。』」
・ユダヤ人たちはイエスが父の元へ帰って行かれることも理解できない。信じない限り、そこに救いはない。
―ヨハネ8:31-32「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
・イエスは続けて言われた「私は十字架の上で死に、復活する。その時、あなたは私が誰かを知るであろう」。
―ヨハネ8:28-29「イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『私はある』ということ、また、私が、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。私をお遣わしになった方は、私と共にいてくださる。私をひとりにしてはおかれない。私は、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
・十字架でその通りの出来事が起きたと福音書は証言する。
―マルコ15:37-39「イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」

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