1.アブラハムの模範
・パウロは「人は信仰によって義とされるのであって、律法や行いによるのではない」と述べ、それを証明するためにアブラハムの事例を出す。ユダヤ人にとってはアブラハムこそ誇るべき民族の父であったからだ。
−ローマ4:1-3「肉による私たちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。・・・聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります」。
・ユダヤ人は、アブラハムは律法を守ったから義とされたのだと主張するが、それが違うことは聖書が証明しているとパウロは言う。アブラハムが義とされたのは割礼を受ける前だった。
−ローマ 4:9-10「この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。私たちは言います『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。・・・割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです」。
・アブラハムは子が無かったし、出来る見込みもなかった。しかし75歳の時、「子を与える」との神の約束を信じた。だから彼は義とされたのではないか。
−創世記15:5-6「『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい』。そして言われた『あなたの子孫はこのようになる』。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。
・その彼が割礼を受けるように言われたのは、それから20数年後、100歳になった時である。
−創世記17:9-10「あなたも、私の契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、私との間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」。
・このことが示すのは、割礼は救いの条件ではなく、救われた事の証印、しるしなのである。
−ローマ4:11「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」。
・現代の割礼である洗礼もそうだ。洗礼によって救われるのではなく、信仰を告白し、認証として洗礼がある。
−ガラテヤ6:15「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。
2.信仰によって実現される約束
・「アブラハムは何故信仰の父と呼ばれるのか。それは彼の行いが正しかったからではなく、人間的に見れば絶望の状況にあったにもかかわらず、神には出来ないことはないことを信じたからだ」とパウロは言う。
−ローマ4:18-22「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。・・・神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」。
・「人には出来ないが、神には出来ないことはない」、これを信じていくのが信仰である。
−ヨハネ11:25-26「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。 生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。
・人間は信じ切ることが出来ない。マルタも兄弟ラザロの復活を信じなかったし、アブラハムもイサクが生まれるまでは信じていなかったのだ。しかし、神は信じきれない私たちをも信じるように導いて下さる。
−創世記17:17「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか』」。
・十字架と復活の出来事もそうだ。理性では信じることが出来ない私たちを信じる者とさせていただいた。
−ローマ4:23-25「『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、私たちのためにも記されているのです。私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます。イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです」
・信仰によって義とされたから、私たちは神の命じられる律法を生きることを大事にするのだ。律法が人を救うのではないが、救われた者には律法が生き方の指針となる・
−ヤコブ2:15-17「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」。