1.2回目の受難予告(17:22−23)
・イエスはピリポ・カイザリヤで1回目の受難予告をされているが、弟子たちは理解しなかった。
―マタイ16:21-22「イエスは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示し始められた。すると、ペテロはイエスを脇へ引き寄せていさめはじめ『主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません』と言った。」
・弟子たちに使命を理解させるために、イエスは再度の受難予告をされた。前回よりは弟子たちの理解は進んだ。―マタイ17:22-23「彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた『人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう』。弟子たちは非常に心をいためた。」
・しかし、弟子たちはまだ理解しない。彼等はイエスの十字架に動転し、復活の時には幽霊だと思った。十字架と復活を自分の出来事として経験しない限り、私たちはそれを理解できない。
―ルカ24:36-37「こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。そして『安かれ』と言われた。彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。」
2.神殿税を納める
・宮の納入金(神殿税)の係りがペテロの所に来て、神殿税を納めるよう督促し、ペテロは納めますと約束した。
―マタイ17:24-25「彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、『あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか』。ペテロは『納めておられます』と言った。」
・イスラエルの成人男子は半シケルの神殿税を毎年納めることが義務であった。神殿税=ギリシヤ語ディドラクマ=2ドラクマで、ローマ貨幣では2デナリ。神殿税は今日の貨幣換算では一人2万円くらいであった。
―出エジプト記30:13-14「全て数に入る者は聖所のシケルで、半シケルを払わなければならない。・・・各々半シケルを主に献げ物としなければならない。全て数に入る二十歳以上の者は、主に献げ物をしなければならない。」
・イエスは神殿への自発的な献金はこれを推奨されている。しかし、強制的な税徴収には批判的だった。
―マタイ17:26「イエスは言われた『それでは、子は納めなくてもよいわけである。』」
・しかし、人々をつまずかせないために納めよと言われた。その後に「魚を取ればその口に銀貨一枚=原語ではスタテラ=4デナリが見つかるからそれを納めなさい」と続く。必要な物は神が与えてくださるとの例えである。―マタイ17:27「彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それを取り出して、私とあなたのために納めなさい」。
3.信仰の出来事と世の出来事
・世の義務についてのイエスの考え方は、信仰の出来事と本質でない出来事は区別せよというものであった。
―マタイ22:17-21「『カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか』。・・・『税に納める貨幣を見せなさい』。彼らはデナリ一つを持ってきた。イエスは言われた『これは誰の肖像、誰の記号か』。彼らは『カイザルのです』と答えた。イエスは言われた『カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい』」。
・パウロはこれを継承し、信仰の本質にかかわらない出来事については世の秩序を重んじなさいと教える。
―ローマ13:1-7「全ての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、全て神によって立てられたものだからである。・・・あなたがたは、彼ら全てに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。」
・マタイの時代にはエルサレム神殿は既に無く、神殿税はローマ神殿に納められていた。従って神殿税を払うかどうかについて教会内で多くの議論があった。私たちに与えられている自由は「他者と共にある自由」である。私たちは隣人をつまずかせないために秩序に従うが、隣人を縛る秩序に対してはこれに抗議する。
―?コリント10:23-32「全てのことは許されている。しかし全てのことが益になるわけではない。全てのことは許されている。しかし全てのことが人の徳を高めるのではない。誰でも自分の益を求めないで他の人の益を求めるべきである。・・・ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。私もまた、何事にも全ての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。