1.イエスの受難予告と弟子たちの反応
・イエスは弟子たちに三度目の受難予告をされたが、弟子たちは聞いていない。彼らは自分たちの栄光を求めることに心を奪われている。ゼベダイの二人の息子(ヤコブとヨハネ)もそうだった。
―マタイ20:20-21「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが『何が望みか』と言われると、彼女は言った。『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。』」
・他の弟子たちも同じ欲求を持っている。二人に出し抜かれたと思った他の弟子たちは二人に憤慨する。
―マタイ20:24「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」
・やがてエルサレムに着くという時になっても弟子たちはイエスを理解しない。しかし、イエスはその弟子たちを教えられる。イエスの業を継承して行くのは、彼らであり、やがてイエスと同じ杯を飲むようになる(使徒12:3)。
―マタイ20:22-23「『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲もうとしている杯を飲むことができるか』。二人が『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる。しかし、私の右と左にだれが座るかは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ。』
・信仰の中にも、栄光を求めるエゴイズムがある。彼らは最期の晩餐の席上でも主導権争いをしている。初代教会の中に、ペテロとヨハネの主導権争いがあったのは事実であろう。
―ルカ22:24「使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」
・私たちが求めるものは自分が高められることであり、その時他者は排除される。ぶどう園で多く働いた者たちが、少なく働いた者に同じ報酬が与えられたことに承服できなかったのも、そのためだ。
―マタ20:10-12「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』」
2.支配するものと支配されるもの
・ローマの統治のやり方は、支配権の絶対を確立し、従わないものは力で圧倒することであった。しかし、あなた方はそうであってはならないとイエスは教えられた。
―マタイ20:25-27「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」
・本当の統治者は神お一人であり、私たちはそれぞれ役割を果たすに過ぎない。そこには支配―被支配の関係は生まれないのではないか。
―士師記8:22-23「イスラエルの人はギデオンに言った。『ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください』。ギデオンは彼らに答えた。『私はあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。』」
・どうすれば人は他者に仕えることが出来るのか。それは十字架につかれたイエスを見上げる時だけだ。
―マタイ20:28「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
・私たちは社会の中ではやむを得ず、生存競争に巻き込まれて生きる。しかし、せめて教会の中では仕えあうことが出来るものになりたい。
―?ペテロ5:1-3「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」
・強い者は自力に頼るから、限界を超えた時に折れる。弱い者はただ主を求めるから、限界を超えて強くされる。強い者もまた、弱い者の存在なしには生きていけないことを覚えたい。
―?コリ12:10「私はキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからである。」