1.イエスとニコデモ
・イエスがエルサレムで為された奇跡を見て、多くの人が信じた。ニコデモもその一人だった。
―ヨハネ3:1-2「ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』」
・ニコデモは律法の教師であり、議会の議員だった。その地位があるために、彼は人目を忍んで、こっそりとイエスを訪ねた。イエスはニコデモのそのような信仰を見られて、「新しく生まれ変わりなさい」と言われた。
―ヨハネ3:3「イエスは答えて言われた・・・『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』」
・彼はしるしを見てイエスの元に来たが、そのような告白では不十分であり、その信仰は生活を揺るがすほどのものではない。傍観者であるニコデモは新しく生まれることの意味がわからない。
―ヨハネ3:4「ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』」
・人は水と霊によって新しく生まれなければ、救いに入る事は出来ない。肉のままでは、罪は死なない。肉の自分に死んで、霊の体に生まれ変わらなければ、救いはないのだ。
―ヨハネ3:5-6「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。』」
2.しるしと信仰
・人はしるしを求める。教会にも「聖霊体験」や「いやし」を求める多くの人がいる。しかし、しるしを見て信じても不十分なのだ。その信仰はやがて崩れる。
―ヨハネ2:23-25「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。・・・イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」
・私たちはしるしを見てもすぐに忘れる。エジプトから救出された民は、神の不思議な業を繰り返し見たのに、信仰には導かれていない。しるしは人を救わないのだ。
―民数記21:4-9「民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます』。主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。・・・主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る』。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。」
・青銅の蛇、すなわち十字架を通してしか救いはない。人は救われるために、一度死ぬのだ。
―ヨハネ3:14-15「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
・死んでイエスに出会った者は永遠の命を与えられる。
―ヨハネ3:18-21「御子を信じる者は裁かれない。・・・真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
・だから私たちは光の子として生きるのだ。ニコデモのように傍観者のままでは救いはないのだ。
エペソ5:8「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」
・ニコデモは世的には尊敬される、正しい人だった。地上の生活が過不足なく営まれている人は神を見ることは出来ない。求めないからだ。ニコデモはイエスとの対話を契機に求め始め、そして最後に新生を獲得した。
―ヨハネ19:38-39「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。」