1.イエスの後を追って来た群集との対話
・イエスが5000人の人にパンを与えられた事実は、群集の間に大きな興奮を呼び起こした。イエスは、自分を祭り上げて王にしようとする群集を避けて対岸のカペナウムに行かれたが、群集はそこへも押しかけてきた。
−ヨハネ6:24-25「群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、『ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか』と言った。」
・群集が来たのは、更にパンが欲しかったからだ。イエスは無くなるパンではなく、無くならない、命のパンを求めよと言われた。
−ヨハネ6:26-27a「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたが私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。』」
・人は恵みを与えられた時、その恵みを見て感激するが、根底にある神の愛を見ようとしない。だから、恵みが去ると信仰も消え去る。イエスはパンではなく、パンを与えて下さる父の愛を見よと言われた。
−ヨハネ6:27b「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
・人が救われるのは業ではない。律法を守り、善行を積み、礼拝を休まなくとも、それだけでは救われない。救いは生命の源である神から来る。だから、御子を遣わされた神の御心を知るときに命が与えられる。
−ヨハネ6:28-29「彼らが、『神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか』と言うと、イエスは答えて言われた。『神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。』」
・人は信仰の保証を求める。信じたら何をくれるのですかと。
−ヨハネ6:30-31「彼らは言った。『それでは、私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。私たちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。天からのパンを彼らに与えて食べさせたと書いてあるとおりです。』」
・しかし、真実は、彼らの先祖達は、モーセにも、モーセを遣わされた神にも、従わなかったのだ。
−民数記14:21-23「しかし、私は生きており、主の栄光は全地に満ちている。私の栄光、私がエジプトと荒れ野で行ったしるしを見ながら、十度も私を試み、私の声に聞き従わなかった者はだれ一人として、私が彼らの先祖に誓った土地を見ることはない。私をないがしろにする者はだれ一人としてそれを見ることはない。」
2.生命のパン
・イエスは言われる「パンではなく、パンを与える者に生命があるのだ。だから、神から遣わされた私を信じよ」
−ヨハネ6:34-35「彼らが、『主よ、そのパンをいつも私たちにください』と言うと、イエスは言われた。『私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。』」
・生命のパンは求めれば与えられるのだ。私はそれを与えようとして、あなたの家の戸口にいるのだ。
−黙示録3:20「見よ、私は戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」
・しかし、群集が求めるのは、あくまでもパンであって、パンを与える方ではない。だから、イエスが、私が死ぬことによりあなた方に永遠の命が与えられるだろうと言われると、群集は離れていった。
−ヨハネ6:48-60「『私は命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。』・・・弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」
・人は都合の悪いことは信じない。都合が良かろうと悪かろうと、これを受け容れていくのが信仰だ。マリアは、未婚のままで子を与えると言う神の約束を、困難と共に受け容れた。ここに人類を変えた最大の奇跡がある。
−ルカ1:38「マリアは言った。『私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』」