1.4000人の給食
・フェニキアで伝道された後、イエスはガリラヤ湖畔に戻って来られた。そこに人々が大勢の体の不自由な人たちを連れてきた。教会はいろいろな人たちが集まり、いやされる場所であることをマタイは示唆する。
―マタイ15:29-31「イエスはそこを去って、ガリラヤの海辺に行き、それから山に登ってそこにすわられた。すると大勢の群衆が、足、手、目や口などが不自由な人々、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。群衆は、口のきけなかった人が物を言い、手や足が不自由だった人がいやされ、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。」
・群衆はイエスの話を聴いていたが、その間食べるものがなく、空腹になっていた。
―マタイ15:32「この群衆がかわいそうである。もう三日間も私と一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。
・イエスは7つのパンと少しの魚を祝福され、4000人の人を養われた。
―マタイ15:35-37「イエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。」
・14章にも5000人に人を養われた話がある。恐らくは一つの奇跡伝承が二つに物語になったと思われる。
―14章では5つのパンで12のかごが一杯になった(5つの律法の書でイスラエル12部族を養われるイエス)。
―15章では7つのパンで7つのかごが一杯になった(7は完全数であり、異民族を含む全ての民を養われるイエス)。
2.給食と聖餐
・聖餐式はこの4000人の給食(愛餐)と最期の晩餐を記念して行われるようになったと言われている。
―マタイ14:19「群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンを裂いて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。」
―マタイ15:36「七つのパンと魚とを取り、感謝してこれを裂き、弟子たちに渡され、弟子たちはこれを群衆に分けた。」
―マタイ26:26「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれを裂き、弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ、これは私の体である』。
―使徒2:46-47「日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンを裂き、喜びと、真心とをもって、食事を共にし、神を讃美し、全ての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」
・教会は聖餐共同体と言われる。しかし、現実の教会はこの共同体意識が希薄になっている。
―?コリ11:18-22「あなたがたが教会に集まる時、お互いの間に分争があることを、私は耳にして(いる)・・・そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。あなたがたには、飲み食いをする家がないのか。それとも、神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。」
・神が祝福される時、7つのパンと少しの魚で4000人を養うことが出来ることを、私たちは知る必要があろう。
―マタイ15:33-34「弟子たちは言った、『荒野の中で、こんなに大勢の群衆に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか』。イエスは弟子たちに『パンはいくつあるか』と尋ねられると、『七つあります。また小さい魚が少しあります』と答えた。」
・初代教会は魚(ギリシャ語イクシース)を自分たちの象徴とした。それは「神の子、イエスキリスト、救い主」の頭文字であるが、同時に小さな魚をもって民を養われたイエスを覚えるためでもあった。
―?テモ4:4「神の造られたものは、みな良いものであって、感謝して受けるなら、何一つ捨てるべきものはない。」
・小さき魚に感謝し、小さい者を覚える、それがイエスの為されたことであり、教会の為すべきことである。
―マタイ25:40「王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』」
・私たち一人一人は小さい者であり、目が見えないもの(マタイ15:30)だから、教会に集められた。
―ヨハネ9:41「イエスは彼らに言われた、『もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが「見える」と言い張るところに、あなたがたの罪がある。』」