1.悪霊の追い出し
・イエスはガリラヤ湖の対岸、ガダラの地に来られた。この地でイエスは悪霊につかれた男に出会われる。
―マタイ8:28「向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。」
・二人は凶暴で、墓場に住んでいた。町の外に追い出され、誰もかまわなかった。
―現代の日本でも、精神を病む人が、自傷、他傷の恐れがあれば強制入院させられる。100万人を越す患者がおり、30万人は入院し、病院の大半は閉鎖病棟である。男たちの置かれている状況は現代も同じである。
・男はイエスを見ると駆け寄り、かまわないでくれと叫ぶ。イザヤが描く神を知らない人たちの情況である。
―イザヤ65:3-5「この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、『そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている。』という。」
・しかしイエスは関わられ、悪霊たちは豚の中に入り、豚共に死んでしまう。
―マタイ8:31-32「悪霊どもはイエスに願って言った、『もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい』。そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。」
2.町の人たちはイエスを喜ばない
・町の人たちはこの出来事を見て、イエスに出て行ってくれと頼む。
―人々にとって豚は男よりも価値がある。男は隔離すればよいだけの存在で、豚は財産であった。イエスは財産を犠牲にしても一人の男を救おうとされた。人々から見ればそれは秩序破壊であり、出て行って欲しいと頼んだ。
・イエス自身が処刑された最大の理由は秩序破壊、特に宗教秩序の破壊(神殿冒涜の罪)である。
―マタイ26:59-61「祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。・・・最後にふたりの者が出てきて、言った、『この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました』」
3.我々にとってこの物語は何なのか。
・悪霊につかれた男、今日的には精神の病に悩む人は多い。多くは入退院を繰り返し、その期間は10年、20年にもおよび、治っても帰るところがない。その状況にイエスは進んで関わられた。私たちはどうするのか。
―イザヤ65:1−2「わたしはわたしを求めなかった者に/問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に/見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。よからぬ道に歩み、自分の思いに従う、そむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。」
・また、聖書は私たちの中にも悪霊がいるのではないかと問い掛ける。
―ローマ7:15-24「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。・・・善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。・・・わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」
・パウロが認めたように、私たちの中に毒麦と良い麦の双方がある。この毒麦は悪霊の働きではないのか。
―戦争や災害の極限状態の時、人間は簡単に他者を傷つけ、殺す。私もそうするだろう。
―その一方で、他者のために自分の命を投げ出す人もいる。私にも出来るかも知れない。
・その悪霊はイエスにより、追い出されている。悪霊に悩む人々に私たちはそれを伝えていく。
―ルカ10:18-19「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。」