1.カナンの女とイエス
・イエスがフェニキアに行かれた時、イエスの評判を聞いたカナンの女が来て、娘のいやしを願った。
―マタイ15:21-22「主よ、ダビデの子よ、私をあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」
・イエスは断られたが女は求め続けた。
―マタイ15:24-25「イエスは答えて言われた、『私は、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、遣わされていない』女は近寄りイエスを拝して言った、『主よ、私をお助けください』」。
・イエスは再度断られたが女はくじけなかった。
―マタイ15:26-27「『子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない』。すると女は言った、『主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます』」。
・イエスは女の信仰をみて感動され、娘をいやされた。
―マタイ15:28「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。
2.いやしと救い
・イエスは何故、女の申し出を最初に断られたのか。カナンの女が最初に求めたのは娘のいやしであった。
―マタイ15:22「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」
・求めるべきものが違うことを、女はイエスの言葉に導かれて知った。立っていた女がひれ伏して求めた。
―マタイ15:25「女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。」
・いやしと救いは異なる。いやしは副次的な、一時的なことであり、救いは永遠の出来事である。求めるべきものは救いであっていやしではない。
―ルカ17:11-19「ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われた。・・・イエスは彼らをごらんになって、『祭司たちのところに行って、からだを見せなさい見せなさい』といわれた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。そのうちの一人は、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。・・・イエスは彼にむかって言われた、『きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。』・・・『立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ』。
3.誰が救われるのか
・イエスはご自分の使命は先ずイスラエルに福音を伝える事と考えられたが、人々はイエスを受け入れなかった。
―マタイ8:10-13「『よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。・・・多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。それからイエスは百卒長に『行け、あなたの信じたとおりになるように』と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。」
・自分を正しいとするものはイエスを受け入れない。イスラエルも自分たちは選民であるとしてイエスを受け入れなかった。バプテスマを受け、主の晩餐をいただいていても、自分を正しいとするものは救いの中にない。
―ルカ18:11-14「パリサイ人は立って、一人でこう祈った、『神よ、私は他の人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。私は一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。・・・あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。」
・救われるものは「自分には救われる価値がない、救いは恵みとして与えられる」ことを知っているものである。
―マタイ15:27「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
・ある雑誌への投稿から
「聖書にイエス様が病人や悪霊に取りつかれている人たちをおいやしになったことが出てきます。その度に思うのは娘のことです。9歳の一人娘は知的障害で自閉症です。もし、今、『イエスという救い主が現れて病人を治している』と聞けば、娘を連れてどんなに遠くても行ったことでしょう。・・・『何とか治してほしい。どうぞ治して下さい』と祈っていると時々虚しくなり、障害の重さばかり目に付いて絶望的になってしまいます。・・・『御心の通りになりますように』と祈る時の方が安らかな気持ちになって現実を受け止めることが出来ます。」