1.畑の宝と高価な真珠(44-46節)
・天国は畑に隠された宝を見つけるようなものだとイエスは話された。
―マタイ13:44「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。」
・何十人、何百人の人が教会に来るが、真理を見出す人は少ない。真理は隠されているからだ。しかし、見出した人は、全財産を売ってもそれを買う。人生を賭けるほどのものがそこにあるからだ。
―ヨハネ8:31-32「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
・それは高価な真珠でもある。その価値のわかる人は、全財産を投げ打ってもそれを購入する。
―マタイ13:45-46「天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」
・天国とは人間が努力して到達するようなものではない。既にそこにあるものであり、人間ができることは受け入れるか入れないかだけだ。もし、受け入れた時、それはからし種のように大きく成長する。
―マタイ13:31-32「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。
2.網を投げ入れる行為(47-50節)
・天国は網を引き上げる行為と似ている。網を引くと、そこには良い魚も悪い魚もいる。
―マタイ13:47-48「天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。」
・良いものと悪いものを選別するのは網が一杯になった時、神の国が成就する時だ。今は多くの魚を網に捕える時であり、教会の中に雑多な人がいてもいいではないか。選別するのは神の業であり、私たちの業ではない。
―マタイ13:49-50「世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」
3.天国のことを学んだ人(51-58節)
・天国の真理を悟った人は、新しいものと旧いものを自分の蔵に納める。新しいものとはイエスの福音であり、旧いものとはモーセの律法だ。私たちは新約だけでなく旧約も学ぶ。旧約と新約の二つで聖書なのだ。
―マタイ13:52「天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。
・人々はイエスの教えと業に驚いたが、イエスを受け入れることを拒んだ。イエスが大工の子であったためである。私たちも肩書きを持つ教師の言葉は聞くが、肩書きのない大工の子の言葉は拒否する。
―マタイ13:55-57「この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。・・・こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」
4.教会の仕事は種を播き続けることだ(13章要約)
・私たちは福音の種を播く。大部分の種は失われるが、その中に必ず良い地に落ちた種があって、その少しの種から、何十倍、何百倍の実が収穫される(伝道)。
・播いた種のうちのあるものは毒麦になろう。しかし、選別するのは私たちの業ではない(牧会)。
・信仰の種は、今はからし粒にように小さくとも、やがては数メートルの大きさに育つ。種(福音)に命があるからだ。私たちはそれを信じて種を播き続ける(教会形成)。
―イザヤ55:10-11「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」