1.迫害の予告(16-25節)
・私たちが世でキリスト者として生きることは、狼の群れの中で無防備に生きるようなものだと言われる。何故なら、キリストが世に属さないように、私たちも世に属さないからだ。
―ヨハネ15:19「もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、私があなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。」
・現実に初代教会においては多くのものが迫害に苦しみ、ある者達は殺された。
―ヘブル11:37-38「石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。」
・あなたは世から憎まれる。耐え忍べ、私もそうだったのだからとイエスは言われる。
―マタイ10:22-24「あなたがたは、私の名のゆえに全ての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。・・・弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。」
・イエスが敵意と拒絶に会うのであれば、私達の伝道も受諾や賞讃ではなく、拒絶や迫害を受けるかも知れない。
―ピリピ1:29-30「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。あなたがたは、さきに私について見、今また私について聞いているのと同じ苦闘を、続けているのである。」
2.恐れるな(26-33節)
・体を殺しても魂を殺すことの出来ない者を恐れるな。父に生かされているものは父の許しなしには死なない。
―マタイ10:28-31「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。・・・二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。それだから、恐れることはない。」
・ここでは体が殺されないように守られるとは言われていない。殉教はあるかも知れないと言われている。
―黙示録13:9-10「耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、/捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、/剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」
・しかし恐れるな。天の父は全てをご存知である。
―マタイ10:26「彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。」
3.新しい秩序をもたらすものとしての剣の例え(34-42節)
・私達がキリスト者になることによって、家庭が乱されることが起こるかも知れない(明治期のキリスト者はヤソ、邪宗門者と呼ばれ、信仰に入れば勘当された)。
―マタイ10:34-36「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。」
・聖書においては、親も子も、夫も妻も、兄も弟も、神の前には全て一人の罪人に過ぎず、同じである。故にそこでは君臣・親子・兄弟・夫婦というこの世の上下的な社会秩序は崩れるのである。
―マタイ12:50「天にいます私の父のみこころを行う者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのである」。
・この世の秩序が壊れた時、そこに人格的な秩序が生れる。故にパウロは、妻に夫に従えと勧告すると同時に夫に妻を愛せと勧告し、子に服従を勧めると同時に親に慈愛を説く。これは上下社会においてはないことである。
―コロサイ3:18-21「妻たる者よ、夫に仕えなさい。それが、主にある者にふさわしいことである。夫たる者よ、妻を愛しなさい。つらくあたってはいけない。子たる者よ。何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。」
・あなたが主のために一旦家族を捨てた時、捨てられた家族も命を得るようになるとイエスは言われる。
―マタイ19:29「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍をも受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」